哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

梶 芽衣子『女囚さそり』「怨み節」と「キル・ビル」


 梶 芽衣子。
『女囚さそり』シリーズ、
近所の東映映画館で何本か観たなあ。
細かい内容はもう忘れたけど。
 
 当時、映画館が宣伝のために連日昼間大音量で流してた挿入歌「怨み節」が、家の中に居てもはっきり聞こえてきて

これに誰も文句いわなかった。時代だよなあ~
 
いまだに耳の底に残っている。

 

 

 

キル・ビル」観て(あ!…あの曲だ!)と数十年ぶりに思いだした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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(過去記事統合増補編集再録)

自分を信じちゃダメな場合もあるよ

 

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 マグカップに注いだ牛乳の表面にそ~っと顆粒インスタントコーヒーを浮かべてレンチン。
こうすると香ばしくて美味い。

適温に温まるまで数秒待つ間、ちょっとテレビ画面見たら、再放送ドラマで藤田まことが昔流行った美容器具を使ってるシーンに一瞬で気を盗られタイミングがズレて、コーヒー牛乳が吹きこぼれ、レンジの中が大惨事に。


 おれは、このパターンのミスを何度もやらかしてるのに…
 
つねづね「自分を信じろ」と、ひとにも自分にも言っているおれだが、こういう時の自分だけはZぇっったい信じちゃだめ!
 
眼を離しちゃダメだ。
揚げ物してる時とかも。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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(過去記事統合増補編集再録)

 

 

『地球が静止する日』底流する聖書の強烈イメージ

より引用させていただきます。
 

ある夜、プリンストン大学で教諭をする地球外生物学者ヘレン・ベンソン博士の自宅に、アメリカ政府のエージェントが突然やってきた。強制的にある非常事態への協力を求められたヘレンは、1年前に他界した夫の連れ子であるジェイコブを隣人に預け、慌ただしく公用車に乗り込む。

すでに政府は、軍を総動員出動させ警戒態勢を敷き、町は異様なまでに静まり返っていた。政府がヘレンのほかに、核物理学・天文学・地質学などの権威を招集したのは、木星の外側で観測された「謎の物体」への対策を講じるためだった。小惑星と思われるその物体は、想定外の進路を信じがたい速度で移動し、マンハッタンへと迫っているのだった。…………

[引用終]

 

 

 

 これは、1951年公開『The Day the Earth Stood Still』のリメイクで、名作のアイデアは世界中の後続映画に何度もパクられ、俺たちはすでに見飽きてるから、上記のストーリーに新鮮味はまったくない。


 しかしこのリメイクは非常によくできて、オリジナルのつまみ食いできない芯になっている部分を、ある意味オリジナルを超えて鮮明に描いている。

 聖書は、旧約新約全体のエピソードが最後の審判に収斂する構造になっている。
この物語の究極形が、今も欧米の人たちの血肉となって活きていることを実感できる。
 
 
1951年版

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(過去記事統合増補編集再録)

加川良

 学生時代に深夜ラジオから流れてきた
「教訓 I」 の肝銘は、今も生々しい。

 

 これをパロった、
なぎら健壱の「教訓Ⅱ」も面白かった。
 
 加川良って 日本でも一般受けしないのに、シカゴでライブやってたのか…我が道を行く人だったなあ。

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いつも心に太陽を』ルル

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(過去記事統合増補編集再録)

 

人々は、自由に飽いて、往年の獣の国に戻る


 日本人は

 

死んだ人は、あなたの近くにいる。

 

と、千年も前から言い続けている。

 

しかも、これはもちろん日本人だけではない。

 

人は(私は)死んでも生きてるんだと。

何千年も昔から世界中で、なんど世代が入れ替わっても、人々はこの迷信を鵜呑みにする。





しかし、


何千年続こうと、

間違いは間違いだ。

真理は、多数決ではないから。

 

マハトマ・ガンジーの言葉とされているもの フリー引用句集『ウィキクォートWikiquote)』)から引用させていただきます。

周知だからといって間違いが真実にはならないし、誰もそう見ないからといって真実が間違いにもならない。例え大衆の支持無くとも、真実は立ち上がる。真実は自立しているから。

"An error does not become truth by reason of multiplied propagation, nor does truth become error because nobody sees it. Truth stands, even if there be no public support. It is self sustained."

(引用終)

 



人間は

死を

超えられない

 

とは、ブッダの聖なる教えなのです。

 

この真昼の太陽のように明々白の真実を、そのままに受け入れる者はほとんどいません。

一般大衆はもちろん、学者・僧侶にさえほとんどいない。しかし

大衆の支持無くとも、真実は立ち上がる。真実は自立しているから。

 

 

 

 




 ここでひとつ質問です。
この世界に争いが絶えない原因は何だとおもいますか?








ブッダの真理のことばDh.6 中村 元 訳)

から引用させていただきます。

「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
――このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

(引用終。強調は私です)




 ブッダ

「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。――このことわりを他の人々は知っていない。

の後に続けて

しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

と教えています。

 わたしはこう確信しています。
死んだ後も何らかの形で「自分」は生きていると大多数の人々が妄想していることこそ、世界に争いがしずまらない本当の原因なのだ。と。

知識の表現

「人は必ず死にます。常識です」

 

智慧の表現

「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう」

 

言葉にすれば同じですが、この間には容易に超えがたい深い断絶があります。
その証拠にブッダの次の一句

 

このことわりを他の人々は知っていない。

 

の意味が、知識レベルの人には全然わからないはずです。

世間の常識はあげ底。
それも甚だしいあげ底。
「人は必ず死ぬ」と聞くと「そんなことは常識だ。誰でも知っている」と答えるのがそれ。
生者必滅の理が本当に常識なら、こんなにも浅ましい世界であるはずがないですから。

本当に自分は死を越えられない存在だと気づけば(智慧レベル)「争いはしずまる」ことは自分の手のひらを見るように自明になります。

知識レベルにとどまっている人に、「争いはしずまる」ことをいちおう納得がいくように言葉だけで説明することもできますが、わたしはそんな無駄をやりたくない。
知識でわかってもらっても、争いはしずまらないからです。


 

 


 以下の、ブッダの言葉は「なにをあたりまえのことをくどくどと」と思いたくなるほど、《誰でも知ってる事実》です。


この世における人々の命は、定相なく、どれだけ生きられるかわからない。惨ましく、短くて、苦悩に繋がれている。

生まれたものどもは、死を遁れる道がない。老いに達しては、死が来る。実に生あるものどもの定めは、このとおりである。

若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に到る。

かれらは死に捉えられてあの世に去って行くが、父もその子を救わず、親族もその親族を救わない。

見よ。見まもっている親族がとめどなく悲嘆に暮れているのに、人は一人ずつ、屠所に引かれる牛のように、連れ去られる。

このように世間の人々は死と老いとによって害われる。されば賢者は、世のありさまを知って、悲しまない。

泣き悲しむことによっては心の平安は得られない。ただますますかれには苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。

だから尊敬さるべき人のことばを聞いて、亡くなった死者を見ては、「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、悲しみ嘆きを去れ。

(以上、スッタニパータ第三8・574~590 中村 元訳より抜書引用させていただきました)



 ブッダはなぜ、こんな平凡な分かりきったことを、何度も何度も繰り返し説いたのですか。

それは、この「人間は死ぬ」という事実をありのままに認める人がめったにいないからです。

非常に多くの人は、ありのままの事実を忌み嫌い、不死なる魂の大嘘話を信じて感涙にむせびたいのです。

その根底には死への恐怖があります。


これは、人間と世界を理解するための、決定的な最重要ポイントです。
人々が、自由に飽いて往年の欺瞞の国・獣の国にくりかえし戻ってしまう仕組みと打開策を理解するための。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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アフリカ   

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(過去記事統合増補編集再録)

冷凍フライドポテトでポテサラ

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 おれはときおり、無性にポテサラが食べたい気分になる。

以前、夜中に突然その気分になったのだが、あいにく生のジャガイモのストックがない。
 
しかし、明日まで待てない。
で、気づいた。
業務スーパーで買っておいた冷凍フライドポテトがあるではないか。

これでいけるっしょ。

フライドポテト250gレンチンして、薄切り生タマネギ、軽く炒めたベーコン、醤油に5分漬けた輪切りキュウリは水気を絞って、白ワイン少々、マヨネーズ、塩胡椒少々、砂糖少々で作り…実食。
ポテトの加熱時間が足りずマッシュできてないが、けっこう美味しい。いちおう欲求は満たされた。

さらにフライドポテト250g今度は長めにレンチンして2回目作り、さらしタマネギと、細かく刻んだ甘酢漬大根皮も入れ、白ワイン調味料等で味を調え、これは冷蔵庫へ。一晩置くと、その間に馴染んだタマネギの効果でぐっと美味しくなるからだ。

 記事upしてから「冷凍フライドポテト ポテサラ」でググったら、いっぱいレシピのってるわ。考えることはみんな一緒。

 

 

 

後日
近所のスーパーに行ったら、新じゃがの特売してたので、それでノーマルのポテサラも作った。
(見た目こそほとんど一緒やけど)当然、冷凍ポテトのよりさらに美味しかった。

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(過去記事統合増補編集再録)

 

War 「自分は死んでも生きている」幻想

エドウィン・スター
「ウォー/黒い戦争」

 

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曲の良さに映像のプレゼン的アイデアがプラスされている。

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 戦争で金を儲け平和になると儲からなくなる者達にとって、戦争は明らかに望ましいものだ。

しかし戦争が次々起こり平和が来ない真の原因は彼らではないことに気づかないと、戦争がやむことは決してない。

 

 

 

 

 



 戦争の真の原因は、ごく普通の人々が

 

 

「自分は死んでも生きている」

 

 

という幻想に取り憑かれていることだ。

人々がこの妄信を改めない限り、戦争で金を儲けようとする者がこの人々の中から次々育ち、戦争は繰り返される。

 

 

 

 日中~太平洋戦争で日本人310万人が残酷に殺された。

人間一人一人に隠された我欲が、この無残極まる結果を招いた真の原因であることは間違いない。

 

人間一人一人に隠された我欲の正体こそが

 

「自分は死んでも生きている」幻想

 

なのだ。

 

鉄玉を飲むような苦しみを味わって、戦後76年経った今「あつものりてなますを吹く」が、すでに「のど元過ぎれば」に腐爛している。

人間の犯罪的な貪瞋痴の愚かさは、また同じ過ちを犯すだろう。

本当に驚くべきことだが、人々は、(うす)に入れて穀物と共に(きね)でついても(あの戦争を経てもなにひとつとして変わらなかったからだ。

 

 

犬が自分の吐いたものに戻るように
愚か者は自分の愚かさを繰り返す。
( 新共同訳 聖書 箴言  26章 11節)

 

今や、大組織のトップ意思決定者でさえ、ポジショントークしかせず、それの何がいけないのかも理解できなくなっている。 

その、卑しいおとぎ話に田吾作どもがのせられ、調子こいて迷走し暴走し、あげくに戦争をおっぱじめる。

この前の悲惨極まる敗戦を招くまでのパターンの拡大相似形を1ミリ違わずなぞることになる。

 

今度やったら死者は310万人どころではなくなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

から引用させていただきます。

私たちはあまりにも大きな勘違いをしています。世の中の理屈は、矛盾だらけなのです。 世界では昔から戦争が絶えず起こっていますし、多くの人たちはこのように考えているようです。「テロリストが爆弾を落としたらどうするのか。ほうっておけば我々が殺されてしまうのではないか。やっぱり殺される前に、相手を殺さなければならない」など、そういう気持ち悪い哲学ばかりが世の中にあります。殺しを、とにかく正当化しているのです。


 なぜ殺しを正当化するのかといいますと、それは「自分が生きるべきだ」という前提があるからです。しかし、どんな生命も、どんなに踏ん張っても、生き続けることはできません。誰でも最終的には必ず死ぬのです。
 このことを理解することが、真の智慧であり、真の理性です。生きることは当てになりません。死こそが確実なものなのです。「なんとしてでも生きるべきだ」と、
 
んなこと言っている場合ではないのです。
 
 
 もし、世界中のすべての人々が「自分は死ぬものである」ということを本当に理解したなら、世の中から罪や悪はすっかり消えてなくなるでしょう。だからといって全世界を相手にして教えを説いても意味がありませんから、仏教は一人ひとり個人に向かって教えています。「死ということを理解してみてください。そうすれば、あなたは悪い行為をすることがなくなるでしょうし、道から外れることもないでしょう。それで苦しみがなくなって、完全に守られますよ」と。


 これは、世の中にあるような偉ぶった思想ではありません。世界には「汝、生命を愛しなさい。誰かがあなたを殺そうとしても、あなたはその相手を殺してはならない。赦しなさい」などといった思想もありますが、これには少々傲慢な気持が含まれていますから、周りの人から見れば、なんかイヤな人だなあと思いたくもなります。

 そうではなく、お釈迦様がおっしゃったように、「生きているものは誰でも死にます。私も必ず死にますよ」と観察するなら、自分を殺そうとしている相手を殺す気にもなりませんし、傲慢になることもありません。見栄を張ることも、威張ることもなく、謙虚に、正しく生きていられるのです。



Idaṃ kho, bhikkhave, atthavasaṃ paṭicca ‘maraṇadhammomhi, maraṇaṃ anatīto’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā.



 お釈迦様は、人々が道から外れないようにと考えて、「私は死ぬものである。死を乗り越えていない」と観察してくださいと説かれました。
 ここで、お釈迦様のお考えがよくおわかりになると思います。途轍もない慈しみと深いあわれみをもって、私たちが間違った道に行かないように、正しい方向へと導いてくれているのです。道から外れないよう、そのお守りを教えてくれているのです。
[引用終。強調処理はわたしです]

 

 

 

 

んなこと言っている場合ではないのです。 

 この「気づき」このジャンプができない人には、話が見えないだろうな。


 真昼の煌煌たる太陽のような明々白の事実なのに、大多数の人々は、そのあまりの眩しさに目を本能的にそらせる。死をあの世に引越すことだと共同幻想し、生涯一瞬たりとも死の事実を直視しない。
 
 
人間が自分は死ぬ定めだと本当に認めれば、人間は自由になり世界は平和になる。

 

ブッダは明解に説いている(ダンマパダ6

しかし、著名な知識人も含む大抵の人間は、自分が死ぬ定めだと認める恐怖から意気地なく逃げて「自分に死などありえない」という我有妄想に昔も今も取り憑かれている。
だから自我の牢獄から自由になれず、世界中で殺し合いが止むことがない。
殺す者と殺される者が、同じひとつの愚かな妄想を共有して仲のいいこと。

これで、世界中の賢が、国連なんかで集まって、殺し合いだけ止めたいなんて言ってるんだけど、
 
 
 
 
 

       無理!

 

 

 

ブッダの真理のことばDh.6 中村 元 訳)

「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
――このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

(強調は私です)

 

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から、最終部分を引用させていただきます。

‘‘Byādhidhammā jarādhammā, atho maraṇadhammino;

Yathā dhammā tathā sattā, jigucchanti puthujjanā.

‘‘Ahañce taṃ jiguccheyyaṃ, evaṃ dhammesu pāṇisu;

Na metaṃ patirūpassa, mama evaṃ vihārino.

‘‘Sohaṃ evaṃ viharanto, ñatvā dhammaṃ nirūpadhiṃ;

Ārogye yobbanasmiñca, jīvitasmiñca ye madā.

‘‘Sabbe made abhibhosmi, nekkhammaṃ daṭṭhu khemato;

Tassa me ahu ussāho, nibbānaṃ abhipassato.

‘‘Nāhaṃ bhabbo etarahi, kāmāni paṭisevituṃ;

Anivatt bhavissāmi, brahmacariyaparāyaṇo’’ti.


(生命には)病と老いの本質があり、また死の本質があります。
本質のごとく、生命は生きています。
この本質を、世間の人々は厭い嫌います。
しかし、たとえ厭い嫌っても、
これが生命の本質なのだから、結局はそうなります。
ゆえに、それを厭い嫌うことは、ふさわしいことではありません。
そこで、常に法を観察して生きるなら、
無執着の真理を了知して、健康にたいする酔いと、
若さにたいする酔いと、命にたいする酔いがなくなります。
一切の酔いを乗り越えます。
すべてのものから離れること、それこそが安穏であると見て、
涅槃を目指し、精進を起こします。
今の私には、俗世間に戻り、欲を喜ぶことはできません。
私は逆戻りしない道に入りました。
修行を完成する道に入りました。

     

 (了)

 

 

 

(過去記事統合増補編集再録)