昔、弟と話したことの断片が浮かんできた。
「…主観と客観の問題が最後まで残る」
弟「主観と客観ってなんやったっけ?」
「自分と自分以外のもの」
「昔、カントが純粋理性批判という本を書いて、神の存在は認識することも証明することもできないと言った。
その後ニーチェという男が出てきて、認識することも証明することもできないものは皆インチキだと言ったんだ。カントの言ったことを一歩進めたわけだな。カントとニーチェの間に、おれの好きなショーペンハウアーという人がいて、しゃべったり命令したりするキリスト教的な人格神はいないけど、仏教的な悟りはあるんだと言ったんだ。
ニーチェはそれもないと言った。
それもなかったら大変だぜ!」
弟は頷いた。
悟りなんてないと思っている人は多い。
それは、ニーチェのように思考を突き詰めてのニヒリズムじゃなくて、周りの空気を読んで気楽に調子合わしてるだけだけどね。
それでも、悟りを言葉で理解できるとおもってる人より、悟りなんてないとおもってる人のほうが、まだしも健康だとおもう。
昨今話題の「チャットGPT」生成AIは、これっぽっちもものを考えてないのだ。ある言葉(例えば「古池や」)の次に、何億何兆のビッグデータをサーチして、確率的に一番もっともらしい言葉(「蛙飛びこむ」)を拾って、並べる。基本的にこの単純作業を繰り返すだけで「古池や蛙飛びこむ水の音」全体の意味など一切考えてない。
これを「AI がついに自分で勝手に考えて答えるようになったぁ!」と、世人が妄想してるに過ぎない。
これを逆に見れば、はからずもAI 発展の副産物として、世人の「自我」や「思考」の正体が、もともとこの程度のものだというお粗末な事実が、露わになったといえる。世人とは、その妄想とは、生成AIの、そのまた出来損ないレベルだと。
生成AI、AGI、ASI……なんであれ既成概念をいじくりまわしてできることなら、人工知能で億兆倍のスケールでやっても、それは言葉の工夫だからね。
言葉の工夫なら、どこまで拡張発展しようと、
悟りとは徹頭徹尾関係ない。
ブッダの示した悟りの道案内の地図の隅々まで詳しく研究して地図の専門学者になってもなんの意味もない、実際に地図に示された道をその通りに自分の足で歩いて確かに目的地にたどり着く体験をして、初めて地図の意味もありがたさも分かる。
(My Favorite Songs)デイヴ・クラーク・ファイヴ
「ビコーズ」
今まで忘れてたのになんだけど、この曲も忘れられない大好きな曲だった。
The Dave Clark Five ♪ Because ♪
(過去記事編集再録)