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戦争で金を儲け平和になると儲からなくなる者達にとって、戦争は明らかに望ましいものだ。
しかし戦争が次々起こり平和が来ない真の原因は彼らではないことに気づかないと、戦争がやむことは決してない。
戦争の真の原因は、ごく普通の人々が
「自分は死んでも生きている」
という幻想に取り憑かれていることだ。
人々がこの妄信を改めない限り、戦争で金を儲けようとする者がこの人々の中から次々育ち、戦争は繰り返される。
日中~太平洋戦争で日本人310万人が残酷に殺された。
人間一人一人に隠された我欲が、この無残極まる結果を招いた真の原因であることは間違いない。
人間一人一人に隠された我欲の正体こそが
「自分は死んでも生きている」幻想
なのだ。
鉄玉を飲むような苦しみを味わって、戦後76年経った今「
人間の犯罪的な貪瞋痴の愚かさは、また同じ過ちを犯すだろう。
本当に驚くべきことだが、人々は、
犬が自分の吐いたものに戻るように
愚か者は自分の愚かさを繰り返す。
( 新共同訳 聖書 箴言 26章 11節)
今や、大組織のトップ意思決定者でさえ、ポジショントークしかせず、それの何がいけないのかも理解できなくなっている。
その、卑しいおとぎ話に田吾作どもがのせられ、調子こいて迷走し暴走し、あげくに戦争をおっぱじめる。
この前の悲惨極まる敗戦を招くまでのパターンの拡大相似形を1ミリ違わずなぞることになる。
今度やったら死者は310万人どころではなくなる。
なぜ殺しを正当化するのかといいますと、それは「自分が生きるべきだ」という前提があるからです。しかし、どんな生命も、どんなに踏ん張っても、生き続けることはできません。誰でも最終的には必ず死ぬのです。
このことを理解することが、真の智慧であり、真の理性です。生きることは当てになりません。死こそが確実なものなのです。「なんとしてでも生きるべきだ」と、
これは、世の中にあるような偉ぶった思想ではありません。世界には「汝、生命を愛しなさい。誰かがあなたを殺そうとしても、あなたはその相手を殺してはならない。赦しなさい」などといった思想もありますが、これには少々傲慢な気持が含まれていますから、周りの人から見れば、なんかイヤな人だなあと思いたくもなります。
そうではなく、お釈迦様がおっしゃったように、「生きているものは誰でも死にます。私も必ず死にますよ」と観察するなら、自分を殺そうとしている相手を殺す気にもなりませんし、傲慢になることもありません。見栄を張ることも、威張ることもなく、謙虚に、正しく生きていられるのです。
Idaṃ kho, bhikkhave, atthavasaṃ paṭicca ‘maraṇadhammomhi, maraṇaṃ anatīto’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā.
お釈迦様は、人々が道から外れないようにと考えて、「私は死ぬものである。死を乗り越えていない」と観察してくださいと説かれました。
ここで、お釈迦様のお考えがよくおわかりになると思います。途轍もない慈しみと深いあわれみをもって、私たちが間違った道に行かないように、正しい方向へと導いてくれているのです。道から外れないよう、そのお守りを教えてくれているのです。
そんなこと言っている場合ではないのです。
真昼の煌煌たる太陽のような明々白の事実なのに、大多数の人々は、そのあまりの眩しさに目を本能的にそらせる。死をあの世に引越すことだと共同幻想し、生涯一瞬たりとも死の事実を直視しない。
しかし、著名な知識人も含む大抵の人間は、自分が死ぬ定めだと認める恐怖から意気地なく逃げて「自分に死などありえない」という我有妄想に昔も今も取り憑かれている。
だから自我の牢獄から自由になれず、世界中で殺し合いが止むことがない。
殺す者と殺される者が、同じひとつの愚かな妄想を共有して仲のいいこと。
これで、世界中の賢が、国連なんかで集まって、殺し合いだけ止めたいなんて言ってるんだけど、
無理!
※ (ブッダの真理のことばDh.6 中村 元 訳)
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
――このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。
(強調は私です)
‘‘Byādhidhammā jarādhammā, atho maraṇadhammino;
Yathā dhammā tathā sattā, jigucchanti puthujjanā.
‘‘Ahañce taṃ jiguccheyyaṃ, evaṃ dhammesu pāṇisu;
Na metaṃ patirūpassa, mama evaṃ vihārino.
‘‘Sohaṃ evaṃ viharanto, ñatvā dhammaṃ nirūpadhiṃ;
Ārogye yobbanasmiñca, jīvitasmiñca ye madā.
‘‘Sabbe made abhibhosmi, nekkhammaṃ daṭṭhu khemato;
Tassa me ahu ussāho, nibbānaṃ abhipassato.
‘‘Nāhaṃ bhabbo etarahi, kāmāni paṭisevituṃ;
Anivatt bhavissāmi, brahmacariyaparāyaṇo’’ti.
(生命には)病と老いの本質があり、また死の本質があります。
本質のごとく、生命は生きています。
この本質を、世間の人々は厭い嫌います。
しかし、たとえ厭い嫌っても、
これが生命の本質なのだから、結局はそうなります。
ゆえに、それを厭い嫌うことは、ふさわしいことではありません。
そこで、常に法を観察して生きるなら、
無執着の真理を了知して、健康にたいする酔いと、
若さにたいする酔いと、命にたいする酔いがなくなります。
一切の酔いを乗り越えます。
すべてのものから離れること、それこそが安穏であると見て、
涅槃を目指し、精進を起こします。
今の私には、俗世間に戻り、欲を喜ぶことはできません。
私は逆戻りしない道に入りました。
修行を完成する道に入りました。
(了)