哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

邦画「羊とオオカミの恋と殺人」

 


『羊とオオカミの恋と殺人』本予告

 

 始まり20分くらいで、男と女の役回りを入れ替えただけのよくある映画だなとおもって気楽に見てたし、ほぼ物語の常識範囲のハッピーエンドなのに、見終わった時、得した気分になっている。

何か予想を超えて奇妙な余韻が強く残ってるからだ。

 

それでちょっと原作コミック「穴殺人」にあたってみた。

案の定、映画とはだいぶ違い、非常識なまでにオリジナリティと創造性が発揮されていて、映画より濃い刺激的な味がする。

いわば映画は甘口、原作は辛口。俺はカレーとか絶対辛口派だから。

(第1巻を無料試し読みしただけだけど)

 

 

 


羊とオオカミの恋と殺人 🌸🌸 恋愛映画フル

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

テレビドラマ版の「飢餓海峡」

飢餓海峡」は水上勉の社会派推理小説の傑作で、繰り返し映像化舞台化されている。

 


飢餓海峡 (1/4)フルバージョン 萩原健一 若村麻由美 仲代達也

 

 


飢餓海峡 (2/4)  フルバージョン 萩原健一 若村麻由美 仲代達也

 

 


飢餓海峡 (3/4) 萩原健一 若村麻由美 仲代達也 藤村志保

 

 


飢餓海峡 (4/4)萩原健一 若村麻由美 仲代達也 藤村志保

 

 

 

 

戦後、本性むき出しの人間を厭というほど見てきた

樽見京一郎(ショーケン)の深いセリフ。

 

あの時代を生き抜いてきた奴は、みんな人間のカスや。……

今こうやって生きてる人間は、みんなどっかで鬼ですな。

 

 

 

 

これは漱石も同じことを言っている。

 

わが身が危うければどんな無理なことでもしなければなりません。
そんな無法があるものかと力んで居る人は死ぬばかりであります。だから

現今ぴんぴん生息している人間は皆不正直もの

夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」

 

 

 

 

 

 

 

 

現代は

 

「そうですけど何か問題でも」

 

と思考停止で居直る段階に落魄している。

 

こうなると滅びは間近だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エンドロール直前シーンの独白

 

なぜ、生きることがこんなに哀しいのか。

 

こんなにも切ないのか。

 

…それはなぜ

 

 

 

 

 

 

あなたは、なぜか分かりたい

とおもってますか。

 

もうどうでもいいですか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昔、映画版「飢餓海峡」の感想を書いた。

 

水上勉原作「飢餓海峡
内田吐夢監督の東映映画を先に観た。それがあまりにも良かったので、その感動の余勢で小説にも手を出したって感じだ。おれは敗戦直後の荒廃混乱貧困を、(ほとんど類推に過ぎないにしても)辛うじて実感できる最後の世代なので、小説にも映画にもリアリティを感じることができる。今の若者とかにはぴんとこない内容だろう。


DVDを観る
飢餓海峡」秀作


飢餓海峡 予告篇

 


たぶん中学生の時だったとおもう。家の隣の東映で観た映画だ。ラストで三國連太郎扮する主人公が突然フェリーから飛びおり自殺する。その後の海と波の映像がいまだに鮮明なイメージとして残っていた。しかしストーリーや意味はまるで思い出せない。それが気になって何十年ぶりかで観なおした。わりと単純なストーリーだった。でも、今観ても見事な映画だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (My Favorite Songs) 

井上陽水
「紙飛行機」

 

こういう独特の冗長な詩を書いて、見事に曲にのせて歌うことができる陽水はすばらしい。
 

アーナーパーナはヴィパッサナーじゃない?

 ヴィパッサナー瞑想としてアーナーパーナサティを勧めるのは矛盾、アーナーパーナはサマタ瞑想だから。という人に。

 

 

 

 

マハーシサヤドーと現代のヴィパッサナー瞑想法.pdf コーサッラ西澤訳より引用。
質問 16
アーナーパーナ(出息、入息)はサマタ瞑想ですか?ヴィパッサナー瞑想ですか?
答え
禅定を得た人であれ、得ていない人であれ出息、入息をイメージや形などを想像し瞑想すればサマタ瞑想になり、ヴィパッサナー瞑想にはなりません。
息の接触、動きを重視して瞑想するとヴィパッサナー瞑想になり、禅定への道サマタにはなりません。

(How to practice Vipassanæ meditation, I )
(引用終)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実際に、自分でやればはっきりわかること。実践上なんの矛盾もない。

高名な仏道解説書に、アーナーパーナはサマタ瞑想だと書いてある。迷惑な話だ。
学者が書いた解説は、概念や形式に囚われたミスが多い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 (My Favorite Songs) 

ゴールデン・カップス
本牧ブルース」

 

前のダイナマイツもそうだけど、ちょっとでも黒っぽいボーカルだとすぐ好きになってたようだ。

 

 

長い髪の少女←クリックして、聴いてください。

 

 
(過去記事統合増補編集再録)

 

 

 

人間も昆虫も実は同じだという洞察は良い。問題はその先だろ。

 

 

 

 主役も脇も役者の演技はいずれも見事だし、名匠今村昌平監督は作品を完璧に仕上げている。
主演の大女優左幸子は同作品と『彼女と彼』で日本人で初めてベルリン国際映画祭女優賞を獲得した。(←ウィキペディア
リアリズム映画の傑作であることは間違いない。






 しかし、この作品にはなんの哲学もないし主張もない。
強いて言えば
ひたすら生きんとする盲目の意志
の表象がスクリーンに終始映されるだけの映画だ。




 人は虫並みの生活も虫以下の生き方もできる。大多数の人々はそのような生き方をみずからの意志で選んでおり、その苦しみを錯覚して終始夢中で楽しんでいるのだから、そこから脱却などできっこない。
 
一方、人はついに虫になりきれない。
なぜなら人間は(シカトしてるにしてもやはり)自分が死ぬと気づく存在だからだ。
 
しだいに顕現してくるこのジレンマは、自業自得とはいえ、到底言葉で表現できないほど酷い苦しみになり、もはや錯覚して楽しむことは全く不可能になる。
 
 
だから、よそごとの対象描写だけで済まないのは知れている。各々焦眉の問題なのだ。
 
 
 
 凋落世界のリアルな映像だけをいやという程見せて、あとは観客に「で、どうする?」と訊いてくる丸投げ映画か…

それはちょっと狡いわ。
だって、言い出しっぺはそっちだから。
まずあんたが、なにかひとつでも答えろよ。

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 (My Favorite Songs) 
 
 
(過去記事統合増補編集再録)

六祖の独創的『四弘誓願』

 六祖慧能禅師の『四弘誓願』に関する独創的提唱。
自分が自分を自分で信じきることを称揚しているとおもう。


ターン・プッタタートの著作および翻訳『六祖壇経』第六章 懺悔について

より該当部分を引用させていただきます)

 

…『四弘誓願』の仕方を教えます。みなさん、注意して善く聞いてください。

1.自分の心の中に無限にいる、衆生を救ってください。
(自心衆生無辺誓願度)

2.自分の心の中の無限の煩悩を断たせてください。
(自心煩悩無辺誓願断)

3.自性の尽きることのない教えを学ばせてください。
(自性法門無尽誓願学)

4.自性の無上の仏道を成就させてください。
(自性無上仏道誓願成)

 みなさん。大家(優れた人)も道に外れます。「無限にいる衆生を彼岸に渡してください」というのは、私、惠能が衆生を渡すという意味ではありません。みなさん。心の中の衆生とは、いわゆる邪心、迷っている心、狂妄心、不善心、嫉妬心、悪毒心などの衆生を、自性で自分を渡します。これを本当の救い(真度)と言います。

 「自性が自分を渡す」というのは何のことでしょうか。それは自分の心の中に邪見や煩悩、愚かな疑いなどの衆生を正しく見て、救うことです。既に正見があるので、般若の智慧を使って愚疑迷妄の衆生を討ち破って、各自が自分を救います。邪が来たら正が助け、迷が来たら解が助け、愚が来たら智が助け、悪が来たら善が助け、このように救うことを本当の救いと言います。

 また、「無限の煩悩を断たせてください」とは、自性の般若智を使って虚妄の考えを除去することです。また「尽きることのない法を学ばせてください」は、自分の本性を見て、常に正しい法を行なうことを本当に学ぶと言います。また「無上の仏道を成就させてください」というのは、既に心が本物の行ないをしていれば、迷いを離れ、悟ることからも離れれば常に般若が生じます。真も妄も除けば、それが仏性を見ることです。それを仏道を成就したと言います。常に修行と考えることは、法を願う力になります。みなさんは今、四弘誓願をしました。更にみなさんに、『無相三帰依戒』を教えましょう。



 みなさん。「覚(悟り)」に帰依することは仏であり、「正」に帰依することは法であり、「淨」に帰依することは僧です。今日からは悟った人を師と呼び、邪や悪魔や異教に帰依しません。自性を三宝とし、常に自分で証明し、善い知識を勧め、自性三宝に帰依します。仏とは覚めることであり、法とは正しいことであり、僧とは清浄なことです。

心が覚に帰依すれば、邪な迷いは生じず、欲が少なく、足ることを知り、お金や色事から離れることできるので、人間の中で最も尊い(両足尊)と言われます。心が「正」に帰依すれば、いつでも邪見や卑しさがないので、我がなく、上に貢ぐこと、貪や欲や執着が現れないので、これを離欲尊と言います。自分の心が清浄に帰依し、煩悩や愛・欲・境・界が自性を染めないこ とを、衆中尊と言います。

この修行を行なうことは、自分に帰依することです。愚かな人には、三帰依戒を受け入れることが理解できません。仏陀に帰依すると言ったら、仏陀はどこにいるのでしょうか。仏陀が見えなければ、何を頼拠り所にするのでしょうか。その言葉は却って妄言になってしまいます。

みなさん。善く観察してください。心を間違って使ってはいけません。経は、仏陀に帰依すると明言し、仏陀以外に帰依すると言っていません。自分の仏陀に帰依しなければ、帰依する所はありません。良く分かったら、自分の心の三宝に帰依しなければなりません。内は心の性を探し、外は他人を敬うことが、自分に帰依することです。
(引用終。強調付加はわたしです。原文にはありません)

 

 

 

 
 
 
 
 
 
(My Favorite Songs) 
 
ザ・テンプターズ
「忘れ得ぬ君」

テンプターズで、この曲が一番好きだった。「神様お願い!」「おかあさん」とか、あざとく感じられて嫌いだった。
 
(過去記事統合編集再録)

潜在意識よ! 一生のまたとない特恵


 おれはヴィパッサナーを始めると、すぐ顔が痒くなり、「痒み、痒み、痒み」とラベリングしてもなかなか消えないし、やっと消えてもすぐ別の箇所が痒くなってきりがない。痒みは、痛みよりたちが悪い。
がまんできず掻いてしまい、ちっとも集中できない。
事前に風呂で入念に洗顔したのに、なぜヴィパッサナーを始めるといつも顔が痒くなるのか。

 

潜在意識がヴィパッサナーを嫌がって抵抗しているのだ。

 

「おれの潜在意識よ!

頼む、ヴィパッサナー実践を成功させるために協力してくれ。おまえのためでもあるんだから、それしかおれもおまえも救われる道がないんだから。緊急事態だということを理解してくれ。今のおれとおまえは運命共同体なんだ」

 

他人からみれば滑稽なことだろうが、潜在意識に、このように真摯に真剣に内語で語りかけ説得したら、顔が痒くなりかけてもじきに収まった。

明らかに効果がある。

なにもしないよりヴィパッサナーに専念できる時間が増した(身体を動かしたい気持ちが減った)。

 

ただし、潜在意識への語りかけも、だらだらやると、これが新たな雑念妄想になってしまうから、真剣に集中して短時間で済ませないといけない。
(これ自分では公案「巌喚主人」の応用のつもり。我流なので
、お勧めはできません)

 

 スマナサーラ長老の明快で懇切丁寧な法話を聴いて、納得して、

ぜひ死ぬまでに一度でも真剣に全力で実践してみてください。

たとえ手ごたえががなく徒事に思えても、やれば一生のまたとない特恵に確実になってますから。


Lesson8 座る瞑想/智慧の世界|スマナサーラ長老のヴィパッサナー瞑想入門⑩


私の場合どうしても頬っぺたの方痒くなるんですね(30:50辺り)

スマナサーラ長老もそうだったんだ!

なんか嬉しいな。

 

 


Lesson1 ものを動かして元に戻す瞑想|スマナサーラ長老のヴィパッサナー瞑想入門③

 




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(My Favorite Songs) 

 

ものすごすぎる。「恐れ入りました。参りました。」というしかない見事な歌。


ヨイトマケの唄

 

 

(過去記事統合増補編集再録)

日々気楽に生きてれば満足だとする煩悩中毒

 

 知っていますか? 人々は本当に価値あるものに価値がないと思い、価値がないものに価値があると思う。評価すべきものは評価せず、批判すべきものを賞賛する。意味あるものは無意味だと思い、無意味なものに意味があると思ってしがみつく。

 「私はそんなことはしていない」と思われるでしょうが、実はそうではありません。皆同じです。真理をありのままに知ることができるのは、悟りを開くときだけです。ありのままに物事を観て生活するのは、悟った方々です。悟りという認識革命を起こしていない限り、我々の認識はあべこべです。仏教用語で顛倒(vipallâsa)といいます。

 すべてのものは無常です。しかし我々は、すべてが変化しないもの(常)だと勘違いして、ものに執着したり、あらゆる計画を立てたり、期待、願望、切望したりします。期待がはずれたら悩み苦しみが生まれるのに、一向にめげない。それで苦しみが続くのです。体は不浄なものなのに、とてもきれいなものだと思って、限りなく苦労する。自分というものには実体がなく、あらゆる部品で一時的に組み立てられたものなのに、それも常に変わっていくのに、「自分という実体がある」と思い込んでいる。皆、死んでしまうのに、絶対認めない。死なないという前提で生きることは、やりきれないほど苦しいことなのに、ありのままの事実を認めない。

 このように認識があべこべだから、価値観もあべこべです。死にものぐるいで勉強して知識を得ても、金を儲けて財産を築いても、贅沢に溺れていても、死ぬときにはすべて捨てるのです。
生きているというプロセスは、持つ者にも持たざる者にも同じです。
持つ者には持つことで苦しみが生じ、持たざる者には期待で苦しみが生じます。
(引用終)

 

 

                異議なし!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…ただ…この素晴らしい法話と関係ない事をちょっと言わせて。

 

 

 

 

 

ブッダはすべての人を救うことはせず

私がしなかったことは、しなかったとせよ

と教えた。

その理由について言いたい。

 

 

 

 


が、大多数の人々の崇めてやまない神だ。

不滅の魂や大我や唯一絶対神やらはそのための道具に過ぎない。


世界のすべての宗教もとっくにその道具に劣化変容し終わっている。

「生きんとする盲目意志」とは「けもの本能」のことで、
人間は大脳作用による理性の薄皮1枚でこの「けもの本能」をコーティングして、
見た目ピカピカの別物に見せているに過ぎない。

理性は、盲目意志に誘惑され、説得され、結局ほぼ常に屈服する。











 ほとんどの人は、五蘊の奴婢であり、
ただ日々を気楽に生きていければ満足だとする煩悩中毒者だ。


「生きんとする盲目の意志」を全否定する無常・無我はもちろん、
死という、見誤りようなき鮮鋭な事実さえも、かれらは容認しない。

各々自分は死んでも生き続けるとおもっている。


 
 
真理を過重に押しつければ、グレてファシズムに落ちてしまう。

最悪の結果をまねくだけだ。



だから、ブッダはすべての人を救うことはせず

私がしなかったことは、しなかったとせよ

と教えたのだとおもう。

 

 

 

 

 

 
 
 
 
 (My Favorite Songs) 

伊藤咲子
「乙女のワルツ」

 

この曲、可憐な気持ちを高らかに歌いあげるアンマッチ感がよかったな。

 
(過去記事統合増補編集再録)