哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

現今ぴんぴんしてる人間は皆不正直者

 

夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」から引用します)

いわゆる因果法というものはただいままでがこうであったということを一目に見せるための索引に過ぎんので、便利ではあるが、未来にこの法を超越した連続が出てこないなどと思うのは愚の極であります。…
(以上)

 

 

 

人は、単純な連想を因果とごっちゃにしていると思います。それで、釈尊の悟り
これありて、これあり。これ生ずればこれ生ず。これ無きにしてこれ無し。これ滅すればこれ滅す」を
「なんだ科学の因果法則じゃないか。知ってるよ」
などと言う。
「あんたの知ってるのは連想だろう」
とツッコミを入れたくなります。

 

 

 

(同 引用)

いろいろな抽象や種々な仮定は、みんな背に腹は代えられぬ切なさのあまりから割り出した嘘であります。そうして嘘から出た真実であります。…

要するに生活上の利害から割り出した嘘だから、大晦日に女郎のこぼす涙と同じくらいな実は含んでおります。…

わが身が危うければどんな無理なことでもしなければなりません。
そんな無法があるものかと力んで居る人は死ぬばかりであります。
だから現今ぴんぴん生息している人間は皆不正直もの

(以上。強調は私です)




理性は、欲望に誘惑され、説得され、結局ほとんど常に屈服する。

この欲望は「ひたすら生きんとする盲目の意志」であり、苦に夢中になりながら、苦を嫌う極愚者だ。

極愚者に屈服した理性は機能不全に陥り、みじめな我が身を、後知恵で取り繕い弁護するだけになる。この虚しい苦役が、さあいよいよ死ぬという直前まで絶え間なく続く。





※参照

夏目漱石 文芸の哲学的基礎」(青空文庫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (My Favorite Songs)   

 

つのだ☆ひろ
「メリー・ジェーン」

70歳以下の日本の大人ならたぶん誰でも知っているのではないか。

世界的ヒットになりうる潜在力をもった超名曲とおもえるのだが。

 


TCD721 メリー・ジェーン① つのだ☆ひろ (1972)160715 vL FC HD

 

 (過去記事統合増補編集再録)


神のスッピン!

 現代のように理性が尊ばれ、科学が発達し、合理的思考が興隆を極める時代になっても、なぜ依然として大多数の人々は「神」を求めているのか?
この人類特有の謎について。


 ネットからMP3プレーヤーにDLした聖書の朗読を、ウォーキング中によく聴いている。
新約だけでなく旧約の詩篇箴言などもじつに興味深い。

キリスト教の様々な教えが、仏教の様々な教えと、ちゃんと照応していることに気づくからだ。






 ただし、仏教の真髄「無我の教え」だけは、キリスト教にない。
反対にキリスト教の拠り所「唯一絶対永久不滅全知全能人格神」だけは、仏教にない。
(同様の唯一神を信奉するイスラム教等でも事情はまったく同じだ)



これはいったいなぜなのか?









理由は簡単、


唯一絶対永久不滅全知全能人格神

 

とは要するに

 

 

のこと


で、正に、無我とは真逆の主張だからだ。



超絶テクニックを極限まで駆使して最強に盛った詐欺メークで「神」に成りすましているが、その厚化粧をすべて洗い流したスッピンは「我」以外の何物でもない。



人類の大多数は、言葉をしゃべりだす幼児期からすでに内面的に「我」の奴隷だから、外面的にも遅かれ早かれ「神」の奴隷になることで、内と外に益体もないハーモニーを感じようと欲する。



仏教からいえば、全知全能の善なる創造神の教義がどれほど豪壮でどれだけ念が入っていても、たんなる我の厚化粧に過ぎず、
けっきょく無我という肝心かなめの事実に気づいていない妄想状態の域を出ない。










ただし気づかないのには歴とした理由もある(このあたりは社会の悩ましいところだ)


 無我の教えは布教が難しい。
ことばの知識だけでは、体得抜きでは、どうにもならないからだ。

エスキリストには、(それを踏まえ)あえてという菩薩感が濃密にある。

「…種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。 耳のある者は聞きなさい」
弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。…
エスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。…」
「…このたとえ話の意味はこうだ。」「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。
石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである…」

エスは群衆に語ったたとえ話の種明かしを、このように弟子たちにはしたが、この種明かしもまた、もう一つのたとえ話に過ぎない。


最善の無我には及び難いから、神の前に小我を殺し神の大我を生きるという「次善策」を採る。
この覚束無い便法に兇悪な副作用のあることは後の歴史に証明されている。
絶妙手とおもわれたが、そのコストは大きすぎた。

いくら神の大我だと強弁したって我に違いはないからだ。

人類はキリスト教イスラム教のコストを今もはらい続けている。



バートランド・ラッセル「宗教は文明に有益な貢献をなしたか」大竹 勝訳)より引用します。


もし、わたしが、その子が将来殺人狂になることを知りながら子を生んだとするなら、わたしは当然彼の罪に対して責任がなければならない。人間がおかすところの罪を前もって知っておられたとするならば、神が人間を創造することを決意されたとき、神はそれらの罪のすべての結果に、明らかに、責任がある。普通のキリスト教徒の議論は、この世の苦痛は、罪のきよめであるから、善いことであるというのである。もちろん、この議論はサディズムの言いわけであるにすぎないし、とにかく、極めて薄弱な議論である。…
この苦痛の多い世界で、万事このうえなくうまく行っていると信じているひとは、彼の倫理的な価値をそこなわずにおることはできない。それは、常に、苦痛とみじめさとに言いわけをしなければならないからである。

(引用終。赤字強調は私です)





ショーペンハウアー
全知全能の善なる創造神を持ち出すのは、重心が頭にある人形を立てようとする試みに似ている

と言っている。
(何度立ててもひっくり返ってしまうから)









 しかし頼みの綱の仏教も、入滅後の仏陀は信者によって事実上永久不滅の神のように変容されていったし、一神教と構造の似た浄土系信仰が現れると、抵抗なく広く受け入れられていった。

これらは、遣る方ない事実だ。







※浄土系信仰とは無我の教義をあえて言挙げせず唯一神も持たない、ある意味絶妙の仏教。超越絶対神を欲す大衆圧力に常に押されながら崖っぷちで持堪える危なっかしい仏教でもある。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (My Favorite Songs)  

 あほな少年の夢

エイトマン

「少年ジェット」

「スーパージェッター」

「鉄人28号」

まぼろし探偵

テレビにしがみつくように夢中で観てました。

懐かしすぎて、涙ちょちょぎれ。 


『エイトマンの歌』克美しげる フルバージョン 1963~1964

 


◆少年ジェット(ビクター児童合唱団他) 歌唱:亀太郎

 


カラー版 スーパージェッター 主題歌

  


鉄人28号 op

 


151 まぼろし探偵の歌(岩瀬 寛&上高田少年合唱団)KARAOKE 唄:青春太郎

 

 (過去記事統合増補編集再録)

自虐すぎません?


 以下のごとく自ら反省せよというのだが…いささか自虐的に過ぎるのではと、ちらっとおもってしまいます。



外に賢善の相を現してはならぬ。内に虚仮を懐いている身である。貪瞋(とんじん)邪偽(じゃぎ)奸詐(かんさ)(いとぐち)さまざまで、その悪性の止め難きこと蛇蝎(だかつ)の如き我等である。

かかる身に(おい)ては、善というも雑毒であり、行というも虚仮(こけ)である。真実の業とはいわれない。

それ故にその安心、起行(おこない)は、たとえ晝夜(ちゅうや)を分たず、(あたか)も頭上の火を(はら)うように心身を苦励(はげま)しても、すべては雑毒の善である。

(口語訳親鸞 教行信証付領解 金子大栄訳)

<原文>(教行信証・信巻)
外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。

三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。

もしかくのごとき安心・起行を作すは、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。
(以上引用終)


 自ずと出てくる反省でこうならない限りなんの役にも立たないとおもいます。
それのみか、親鸞聖人の表白を、ものまねで受け入れるのは非常に危険です。もし仏智の光をリアルに感じることがなければ絶望しかないですからね。
おれは正直まだそこまで踏みこめないので「自虐すぎる」と揶揄することで心理的バリアをはっているのかもしれません。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (My Favorite Songs) 

 

 

これは、名曲でしょう。(ただし、この年のレコ大は「川の流れのように」がとったほうがWinkのためにもよかったのにと当時おもった)


【HD画質】Wink 淋しい熱帯魚(1989年9月25日)

 

 

 

(同日追記)

偉大なリトル・リチャードが亡くなった。享年87。


Little Richard - Good Golly Miss Molly (Muhammad Ali's 50th Birthday)

 


Little Richard & Tom Jones - Rip It Up - This is Tom Jones TV Show 1970

 


Little Richard - Lucille (1957) [Long Version, High Quality Sound]

 

人気絶頂で突如引退し、勉強して牧師になり、ロックを罪深い悪魔の音楽と言い出した。この逸話を知った時はびっくりしたな。痛ましい迷走の時期だったけど、それだけピュアな人だったってこと。今となっては、きらきら光る勲章。


Little Richard :::: Keep A-Knockin'.

 

(過去記事統合編集再録)

この上なく大切なブッダの筏

 釈尊の獅子吼「(いかだ)のたとえ」は、

河を無事渡りおえた人は筏を捨てて身軽に行きなさい

という教えだ。

www.kosonji.com


  向こう岸に渡り終えたら棄てるべき(いかだ)も、いまだ渡れないでこちら岸にいる者にとっては、この上なく大切にされるべき事情がある。

 

 

 

 

親鸞聖人 教行信証・行巻『五会法事讃』引文 石田瑞麿訳より引用します)

釈尊は)父の王にお話になって、「王。今坐禅を行って、ただ念仏をするのが当然です。どうして、心の念いを離れることと同じようになろうとして、念いのない境地をお求めになるのですか。仏の相好を観想しないで、真実そのものとしての法身をお求めになるのですか。文字を離れて、さとりをお求めになるのですか」と仰せられた。
(引用終)

<原文読み下し文>
父の王にいいてのたまはく、「王いま座禅してただまさに念仏すべし」と。あに離念に同じて無念を求めんや。生を離れて無生を求めんや。相好を離れて法身を求めんや。文を離れて解脱を求めんや。

金子大栄先生の解説。

(口語訳教行信証付領解 金子大栄著より引用します)

念を離れて無念は求められず、生を離れて無生は求められず、相好を離れて法身は知られず、教説を離れて解脱は得られない道理が示されてある
(引用終)




 河を渡る前に筏を捨てると、当然だが、その人はいつまでたっても河を渡れない。

そんなマヌケがこの世にいるのか…けっこういっぱいいるんだな、これが。
学者タイプに多いね。
本人に河を渡る覚悟がなければ、釈尊から与えられた筏は邪魔になり、渡らずに捨てても面目が立つ理由を、なんかかんか探すようになる。
釈尊が厭えと説いている五蘊と貪瞋痴が大好きで夢中になっている自分をなんとか肯定するため、懸命に屁理屈こねて「世法即仏法」とか「このままでいい」とか『証明』する人。
こういう人達は、釈尊の教えがなぜ出世間法なのか、なぜ無我なのか、なぜ無常なのかが全部根本的に分からないので、人類の至宝である釈尊の筏が、かえって精神的負担でしかない。
大我・如来蔵・仏性・本覚思想・世間法即如来法…これ皆、苦労して彼岸に渡る意味が全然分からない人達が、五蘊と貪瞋痴の此岸に気分よく居続けるために作った、筏を捨てるための戯論だとおもう。
気分よく居続けることなんてできないんですよ、病気になるし死にますから。
でもそれも、魂は死なないなんてアホな妄想で自分を騙す。

他の場合なら、絶対のらないような低レベルのアホ話。

老病死に追い詰められ切羽詰まると

背に腹は代えられないと「利口に」計算して

魂(真の自分)は死なないなんてアホな妄想に

みんなでのれば怖くない

ということで。

 



人はがんらい、河を渡る(=修行する)気迫に欠けているから、この弊に気づいてもなかなか改めることができない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  (My Favorite Songs) 

矢野顕子
「ごはんができたよ」

 

誰にも似ていない。
個性とか独創とかはこういうことをいうのだろう。


ごはんができたよ - 矢野顕子 Studio Live

音楽じゃないけど、連想したものはある。これ。

 

太郎をねむらせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。

二郎をねむらせ、二郎の屋根に雪ふりつむ。

 

 

 

 

 

 


春咲小紅~また会おね - 矢野顕子 (12/05/12)

 

 

 (過去記事統合増補編集再録)


アメリカ人の自我が神となった宗教

 日米関係において、日本が昔も今もアメリカの真意をろくすっぽ読めずに大失敗する根本原因は、日本人がアメリカ人の宗教心にまるで無頓着なところにある。
宗教大国アメリカには、「アメリカ人のアメリカ人によるアメリカ人のための一神教末日聖徒イエス・キリスト教会(The Church of Jesus Christ of Latter-day SaintsLDS 通称モルモン教)がある。
アメリカ人の自我が神となった宗教だ。

 

 

 

 

 

 

モルモン教成立以前のアメリカの状況。

多くの日本人には想像しにくいことなのだが、故郷を棄てて、見知らぬ未開の大陸のだだっ広い荒野で過ごす開拓者達の不安な日々…そのなかで、絶対創造神にすがった彼らの切羽詰った心情の巨大なエネルギーの存在を、まず知っておく必要がある。

19世紀前半、多数のプロテスタント宗派が乱立した混乱状態のなかで、ジョセフ・スミス・ジュニアは大胆極まる内容の「モルモン書」(The Book of Mormonをひっさげて新たな一派「The Church of Christ」後の「末日聖徒イエス・キリスト教会」(モルモン教)を設立する。



おれは、謎だらけの「モルモン書イエス・キリストについてのもう一つの証」はジョセフ・スミス本人と関係者達による創作だと思っている。

彼らの無意識の動機と目的は、アメリカ人のアメリカ人によるアメリカ人のための一神教を創ることにあったとおれは思う。

明らかな虚偽がAlternative factsとして公然と擁護されるようになったトランプ以降のアメリカで、遠くない将来、この自分達専用にチューンアップされて具合よい一神教アメリカ宗教界の一大勢力になるかもしれない。


 

 

 

 

 日本の仏教界は、この前の戦争が始まると、無我の名を僭称して実際には国家への滅私奉公を説くという「グループぼけ」に陥った。

絶大な権力を持つアメリカが、神の名で国家への盲従を説くという「グループぼけ」に陥ったら、世界は甚大な被害をこうむる。

どうかそうなりませんように。



 

 

わたしたちの大儀は、わたしたちの国家よりも偉大である」

(9.11一周年行事のブッシュ大統領演説)





 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (My Favorite Songs) 


くそ長いHa~Ha 止まらないHa~Ha 矢沢永吉

 


チャイナタウン~キャロル~ウイスキーコーク~雨のハイウェイ

 

(過去記事統合増補編集再録)

盲目の欲は自己の保存と拡大のみを欲する

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 おれは、月1回、近隣の神社の裏山に岩清水を汲みに行く。
もちろん無料である。

この水を使っていれた美味しいお茶を飲みながら、ちょっと思いついたことがある。「もちろん無料である」と書いたが「まだ今のところは無料である」と書くべき時代ではないのかと。

以前、NHKで、世界中のきれいな湧き水の使用権を独占しようとする、企業の活動を特集していた。




 欲望は、自らひたすらに生き続けようとする盲目性をその特徴とし、自己保存と自己拡大以外の目的をいっさい持たない。

非常に多くの人は、この盲目の欲をコントロールする意欲に欠けている。
いや、そんなどころではない。こう云うべきだ。
大多数の人間は物心ついた頃には、この盲目の欲望と自分をすっかり同一視し、自ら望んで盲目の欲の奴隷になったことに気づこうとさえしなくなると。

(欲の奴隷は、欲望と意欲の区別ができないので、すぐ見分けはつくが)




 この盲目の欲が形を変え、資本主義となって現れても、本来の特徴である盲目性はそのまま受け継がれている。

資本主義下の企業は、自由な活動をしているだけだが、事実は自ら望んで資本主義システムの奴隷になっている。
法を整備し悪人を減らす努力は無駄ではないが、個々人の善意ではどうにもならないシステム独自の問題があるとおもう。

誰も望んでいないはずなのに、いじめも戦争も、一向になくならないのは、欲のシステムに欠陥があるからだ。

ブッダはシステムの欠陥を貪瞋癡と呼んだ。

同じように、99%の人々がそうなることを意識的には望んでいないにもかかわらず、やがて水も空気も有料の時代が来るとおもう。
盲目の欲に同化して、欲の塊になってる自分に気づきがない人々は、貪瞋痴に夢中なので、それを止める力など持てるわけがない。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (My Favorite Songs) 


ミネソタの卵売り /暁テル子

 


買い物ブギ / 久和田佳代 Cayo Kuwada

 

 

 

 (過去記事統合増補編集再録)

ざんしゅつげんぷくもつ(暫出還復没)


親鸞聖人『教行信証』化身土巻に「涅槃経」の気になる教えが引用されている。


四つの善事あり、悪果を獲得せん。

悪い結果になる善行が四つある、というのである。
こういう善を実行してはつまらないわけだ。


(以下、青字は経典引用文、黒字はおれの試訳と感想です)

何等をか四とする。
一つには勝他のためのゆえに経典を読誦す。


相手を言い負かしてやろうと思って、仏教を勉強すること。

二つには利養のためのゆえに禁戒を受持せん。

金と名誉のために、立派な修行者をまねること。

三つには他属のためのゆえにして布施を行ぜん。

ひとを自分に靡かせるために、布施をすること。

四つには非想非非想処のためのゆえに繋念思惟(けねんしゆい)せん。

真の悟りでない「洗練を極めた煩悩」を目的に修行すること。




この四つの善事、悪果報を得ん。

もし人かくのごときの四事を修習せん、これを、没して、没し(おわ)りて還りて出ず、出で已りて還りて没す、と名づく。


こういう人は、いくら必死に努力しても一時的に善くなり、また悪くなるこという浮き没みを繰り返すだけだ。

何がゆえぞ「没」と名づくる、三有(さんぬ)(ねが)うがゆえに。

没むのは、迷いの生存を盲目的に欲しているからだ。

何がゆえぞ「出」と名づくる、明を見るをもってのゆえに。

浮くのは、釈尊の教えの一部分を知るからだ。

「明」はすなわちこれ戒・施・定を聞くなり。

釈尊の教えとは、戒律と布施と禅行を学ぶことだ。

三有】さんぬ
欲界・色界・無色界の三界の生存である欲有・色有・無色有。(大辞泉)

 

 

 

 

 

どれほど優れた善を行ったとしても、

隠し持っている正味の自分

 

貪瞋痴に夢中になってる自分

 

悟ったら大損すると恐れる自分

 

に気づかなければ、

「俺・俺のもの」を後生大事に温存したまま懸命に努力することになり、ブレーキを踏んだままアクセルを吹かすような具合となり、真の修行は始まりもせず、せっかくの努力と忍耐がすべて裏目に出てしまう。







(涅槃経 迦葉品)
<原文読み下し文>
もし衆生ありて諸有を(この)んで、
有のために善悪の業を造作(ぞうさ)する、
この人は涅槃道を迷失するなり。
これを暫出還復没(ざんしゅつげんぷくもつ)と名づく。

黒闇生死海(こくあんしょうじかい)を行じて
解脱を得といえども、煩悩を(ぞう)するは、
この人還りて悪果報を受く、
これを暫出還復没と名づく。

 

 

「悪い結果になる善行」を要約した詩(偈)。

石田瑞麿訳)

迷いのこの世  ねがうひと
迷い善悪    なすときは
涅槃のみちを  失えば
浮きては沈むと 名づくなり

暗き生死の   海こえて
さとるも煩悩  まじうれば
またも悪果を  うくるゆえ
浮きては沈むと 名づくなり



 

 

 

 

 

 

 

 

 (My Favorite Songs) 

美空ひばり
「お祭りマンボ」
車屋さん」
「リンゴ追分」
すばらしい名曲名歌唱ですね。


お祭りマンボ(美空ひばり)

 


車屋さん/美空ひばり

 


リンゴ追分(美空ひばり)

 

昔、付き合いのカラオケで 歌った曲。


MBT573 港町十三番地② 美空ひばり (1957)1981-131109 Ver4L

 

(過去記事統合増補編集再録)