哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

「毒矢のたとえ」再び

 

日本テーラワーダ仏教協会HP初期仏教の世界 ヴィパッサナー冥想法話にこうある。

…毒矢のたとえ話を強く心に刻んで覚えておかないと、ブッダの教えは、自分の役に立ちません。ヴィパッサナー冥想をして悟りにまで至る人がゼロに近いのも、そこなのです。皆、「誰が矢を撃ったのか」と調べようとするのです。自分の問題を置いておいて「輪廻などあるのか、神はいるのかいないのか」ということばかり考える。あるいは「姑さんが悪い、職場が悪い。だからなんとかしなくちゃ」と冥想しようとする。そういう「思考・妄想」を置いておいて、自己をありのままに観察するのがヴィパッサナーです。自分の心をありのままに観察すると、自分が直るのです。他を直すのではなく自分を直すのです。自分の心の問題を解決することこそ、何よりも大事なことなのです。人は、人間として生まれた時点で、必ず、基本的に解決しなければならない「生きる苦しみ」をかかえているのです。初めから矢に刺されている状態です。でも「誰がこの矢を撃ったのかわかるまで、この矢に触るな」と言い張るのであれば、どうしようもない。どんな道を選ぶかは各自の自由なのです。

[以上引用終]



 ブッダの「毒矢のたとえ」の重要性を、おれはすでに何度も書いてきた。
しかし現実世界は昔も今も「誰が矢を撃ったのか」と調べようとする人が大多数だ。「姑さんが悪い、職場が悪い。だからなんとかしなくちゃ」乃至「輪廻などあるのか、神はいるのかいないのか」の追及には必死になっても、まったく毒矢を抜こうとだけはしない。

 

これはそもそも毒矢が刺さっている事実に気づいてさえいないからだ、と思って過去記事に 
 有名な毒矢の喩えの哲学青年マールキヤプッタは、自分にささった矢を抜くなと主張している者ではない。
マールキヤプッタは、そもそも自分に矢が突きささっているとは思っていなかったのだ。苦聖諦の気づきがなかった人だったのだ。
と書いた。
「毒矢の喩え」は、絶妙の対機説法に導かれて、ついにマールキヤプッタが自分にささっている矢に気づく、苦聖諦に気づく話なのだ。
「人は死んでも、自分は死なない」という昏深の迷妄から目覚めることができた者の話なのだ。

日常人は死んでもなんとなくまだあとがある気分でいるから、それでサティを実践しても三日坊主にもなれずに終わる。
じっさい、あなたの心が苦を知らなければ、たとえ一切経を丸暗記できても、数分間のサティがまともに維持できないだろう。

 

 大多数の人々の(口先ではなく)行動が現す考えはこうだ。
生老病死など苦ではない、なぜなら生まれた以上だれでも老病死するのだから、そんなことで悩むのは無駄、そんなことより日々眼前の「姑さんが悪い、職場が悪い。だからなんとかしなくちゃ」等に全力で取り組むべきだ。

 これこそ正に「誰がこの矢を撃ったのかわかるまで、この矢に触るな」と言い張っているマールキヤプッタと同じだとは気づかない。

 

 これではブッダでも「どうしようもない。どんな道を選ぶかは各自の自由なのです」と言うしかない。
実際ブッダは、
わたしは目的地までの正しい道を教えるが、それでも行こうとしない者の責任はとらない
とはっきり言っている。












ブッダの感興のことば27・7,8 中村 元訳)より引用させて頂きます。
 人々は自我観念にたより、また他人という観念にとらわれている。

このことわりを或る人々は知らない。

実にかれらはそれを(身に刺さったであるとはみなさない。

ところがこれを、人々が執著しこだわっている矢であるとあらかじめ見た人は、「われが為す」という観念に害されることもないし、「他人が為す」という観念に害されることもないであろう。
(引用終。強調は私です)

 


 自我観念にたよれば、必然他人という観念にとらわれざるを得ない。不老不死永遠不滅のわが魂というエゴイスティックな妄想にもとらわれざるを得ない。
自我観念にたよれば、いじめから戦争に至るすべての争いはとめどなく続かざるを得ない。
 
 
 
 

Wikipedia「一切漏経」からブッダの言葉を引用させて頂きます。

では比丘たちよ、どのようなものが捨てられるべき煩悩であるのか?
比丘たちよ、ここに(法の教えを聞いていない)庶民の人がいるとする。 (中略)


彼はこのように非如理に考える。
「私は過去に存在したのか? 私は過去に存在しなかったのか?
 過去の私は何物だったのか? 過去の私はどのようにあったのか? 過去の私は何物から何物となったのか?
 未来に私は存在するのか? 未来に私は存在しないのか? 
 未来の私は何物となっているか? 未来の私はどうなるのか? 未来の私は何物から何者となるのか?」と。

 

あるいは、今現在の自分に対して疑念を抱く者となる。
「私は存在してるのか? 私は存在していないのか? 私は何物なのか? 私はどのようであるか?
 私はどこから来たのか? 私はどこへ行くのか?」と。

 

このように彼が非如理に考えるならば、これら6つの見のうちいずれかの見が生じる。

「私には我(アートマン)がある」といった確固たる見が生じる。
「私には我がない」といった確固たる見が生じる。
「私は我(アートマン)によって、我を知覚する」といった確固たる見が生じる。


「私は我によって、無我を知覚する」といった確固たる見が生じる。
「私は無我によって、我を知覚する」といった確固たる見が生じる。

もしくは彼にこのような見を持つ。「いま語り感受している私こそが我であり、業の異熟を経験する。私の我は恒常であり、不変であり、永久に存在する(常見)」と。
比丘たちよ、これらは、悪見、見の密林、見の荒野、見の曲芸、見による狂乱、見による結束と呼ばれている。

(引用終)

 

短い人生において

なすべきことの優先順位

を取り違えるのは破滅的失態です。

 

(過去記事増補編集再録)