哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

人間は、自分を救う手立てのない獣ではない

(口伝鈔 善悪二業の事より引用)

…機にうまれつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず、失ともならざる(じょう)勿論(もちろん)なり。

(引用終)


 どんな悪人でも救われる、ということ。

そもそも凡夫の考える善悪など、救いの条件ですらない。まるで関係ないのだ。

他力浄土系の文脈では、救いのイニシアチブを握っているのは弥陀如来である。


「それなら、好き勝手に人を殺してもいいのか」と、トンチンカンなことを訊く人がいる。


その答えがこれ。


…なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし

歎異抄13より)


 凡夫の行為はすべて無意識のうちに「生きんとする盲目意志」が決定し、決定後それに善悪正邪の理屈を、腐敗した奴隷理性が後付けしているに過ぎない。

このおぞましい自分を放ったらかすなら、その罪過は各人が負わねばならない。
人間は、自分を救う手立てのない獣ではないからだ。

八万四千のメソッドはそのためにある。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (My Favorite Songs) 

 

 
 
聞けばわかることですが、歌唱力すごいっす。
 
 
「マンボ・バカン」

この曲、好きだった。聞くと、しばらくマッボバカ~って頭の中で響いてた。


雪村いづみ マンボ・バカン 1956 / Mambo Bacan

 

 (過去記事統合編集再録)

世界の美しさはついに人を救わない

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(以下、青字はブッダのことばの引用です。黒字はおれの意見です)

さあ、この世の中を見よ。
王者の車のように美麗である。
愚者はそこに耽溺するが、心ある人はそれに執著しない。

ブッダの真理のことば ダンマパダ171 中村 元訳)


 釈尊は幼少より帝王学を修め文武両道を極めた才能豊かな王子でした。
各季節ごとに造られた豪華な別荘で贅沢な生活をしていたという釈尊自身の言葉が残っています。
そういう凡人から見て夢のような暮らし向きを、釈尊は全部捨て出家しました。

釈尊は、この世がすばらしく美しいことははっきり認めています。
しかも、その美しさに執着するな。騙されてはいけないよ、と教えています。



世の中は泡沫のごとしと見よ。
世の中はかげろうのごとしと見よ。
世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。

(同170)

しかし、自分から喜んで騙され、共同幻想の中にどっぷり浸かって、貪瞋痴に夢中になっている人たちには、釈尊がそもそもなにを言っているのか分からないのはもちろんです。





また以前には怠りなまけていた人でも、のちに怠りなまけることが無いなら、その人はこの世の中を照らす。──あたかも雲を離れた月のように。
(同172)

今までさんざん怠けてきて、もはや手遅れと心折れることが多いおれでも、まだ間に合うかもしれない。

 

 

 

 


Lesson8 座る瞑想/智慧の世界|スマナサーラ長老のヴィパッサナー瞑想入門⑩

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (My Favorite Songs) 

  青山ミチは一度耳にしただけで強く印象に残って忘れられない歌い手だ。

当時、パンチのある歌声で弘田三枝子と双璧だった。

 生きるのが下手な人だったとおもう。


青山ミチ Aoyama Michi 恋はスバヤク koi wa sabayaku

 


青山ミチ Michi Aoyama/風吹く丘で (1966年)


夢の超特急 Yume No Chotokkyu ( 青山ミチ Aoyama Michi)


青山ミチ レットキス 1965 / Letkiss

 

 
 
 
 
「ミッチー音頭」

 この名曲。名歌唱。

 昔聞いたとき、すごい迫力だったけど、今聴くと、ミッチー、けっこう軽く流して歌ってる。ちょっと意外。でも野太い力強さが伝わってくる歌いっぷりだ。当時それを感じてたんだな。


青山ミチ ミッチー音頭 1963

 

 

(過去記事統合増補編集再録)

「性急で怠けている」とは誰のこと

ブッダのことば スッタニパータ329 中村 元訳より引用します)

みごとに説かれたことばは、聞いてそれを了解すれば精となる。
聞きかつ知ったことは、精神の安定を修すると精になる。
人が性急であって怠けているならば、かれには知慧も学識も増大することがない。

(引用終。強調処理は私です)





性急であって怠けている
とは具体的にどういうことを指すのか。

 法話は喜んで聴き、理解しようと熱心に努力する(この種の人間はたくさんいる)が、ヴィパッサナー実践はすぐ忘れる状態のことだ。

おれのことだ。13年前から成長してない。

精神の安定を修する

へのリンクを切って怠けているので、そこまでの努力が先につながらず実を結ばない。

かれには知慧も学識も増大することがないというブッダの指摘どおり。





 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (My Favorite Songs) 

恥ずかしながら、当時これが一番好きでした。

今見ると、ツッコミどころありすぎで疲れる。


National Kid Abertura

 

(過去記事統合増補編集再録)

アートマンに掻い付く社会

ブッダのことば スッタニパータ249 中村 元訳)


魚肉・獣肉(を食わないこと)も、断食も、裸体も、剃髪(ていはつ)も、結髪も、塵垢(ちりあか)も、粗い鹿の皮(を着ること)も、火神への献供(けんく)の奉仕も、或いはまた世の中で不死を得るための苦行も、神呪(しんじゅ)も、供犠(くぎ)も、祭祀(さいし)も、季節の荒行も、それらは、疑念を超えていなければ、その人を清めることができない。

(引用終)



 社会が成熟してくると、一時的退廃を経て、最終的に祭祀や苦行に深い意味を感じるように、人間はプログラムされているとおもう。

釈尊は、それは人が陥る落とし穴だと教えている。



釈尊は、アートマン(我)を立てることは愚か者のごまかしだと明言している。
しかし人類は現在に至るまでアートマン(我)の酷い欠陥をいかに見せつけられても、これを捨てようと真剣におもったことがない。

アートマン(我)は、この上なく強固な錯覚だ。

アートマンは、人が世界を解釈し適応し生きるために必要なインフラとして自動作成されるように人のDNAにプログラム化されている、とおれはおもう。

 

 人はまずこのプログラムに執着讃嘆する天文学的な長い時期を経てのちにようやく飽きて、では釈尊の教えも聞いてみようという気分になるとおもう。

(人類絶滅が先になる可能性が高いが)

それまでは、アートマンを、不死の魂、真我、大我、仏性と様々に呼び変えては隠し持ち、決して捨てようとしない。

そして唯一絶対宇宙創造人格神がアートマンの最終形だ。

したがって、アートマンを(どんな名前で呼ぼうと)保持する社会は、成熟するたびに何度でもこの神を見いだし、「おお神様 神様 助けて パパヤー」と掻い付き、祭祀と苦行の暗い穴倉に入る。


 

 

 

 

 

  (My Favorite Songs) 

左卜全とひまわりキティーズ。
老人と子供のポルカ

左卜全。バージョンアップ版笠智衆。ファンシーな人だった。 

 

 

(過去記事統合増補編集再録)

悲惨極まる死を遂げた夫婦の件

(使徒言行録4:32,5:1~11 新共同訳から引用します)


イエス・キリストを)信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。 …

ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。
すると、ペトロは言った。
「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。
そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。
若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った。
それから三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。
ペトロは彼女に話しかけた。
「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい。」
彼女は、「はい、その値段です」と言った。
ペトロは言った。
「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」
すると、彼女はたちまちペトロの足もとに倒れ、息が絶えた。
青年たちは入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。
教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。

(引用終)





 昔、あるキリスト教宣教師に「十分の一税」の説明を受けた時、おれはこの悲惨極まる死を遂げた夫婦の件を思い出し
「これは痛ましすぎる話だと思う。あなたはどう思いますか」
と訊いた。
ところが、意外にも
「えっ、そんな話があるんですか?」
と返されて拍子抜けした覚えがある。

ほんとに知らなかったのか、そうではなかったのか、今となっては確かめようもない。
しかし宣教師ともあろう者が聖書のこの強烈なエピソードをまったく知らんというのは不自然すぎる。

知っていたが意識記憶から消えていたということか。

だとすればその理由は?

 

現代、講壇に立ってこの話をし「十分の一税」が義務である信者に(義務ではなく個人の気持ち次第でよいとする宗派もある)「十分の一税をごまかしている者は、この夫婦のように息が絶える」と告げれば、大量の死者が出なければならない。

 

もちろん現実にはそんな人間性を無視した残酷なことは起こらない。

 

むしろ宣教師の孤立と信者の大量脱会が起きる可能性のほうが高い。

 


宣教師はその矛盾を避ける必要からこのエピソードを下意識に抑圧したと、おれは想像する。

 


※「十分の一税
あなたは、毎年、畑に種をまいて得る収穫物の中から、必ず十分の一を取り分けねばならない 。

申命記14章22節)

ja.wikipedia.org

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (My Favorite Songs)  

 

 

 (過去記事統合増補編集再録)

本当は過激な法然上人

法然上人のことば。


(黒谷上人語燈録15 禅勝房伝説の詞より引用します)

(ひとつ)。現世をすぐべきようは、念仏の申されんようにすぐべし。

念仏のさまたげになりぬべくば、なになりともよろづをいといすてて、これをとどむべし。
いはく、ひじりで申されずば、妻を設けて申すべし。
妻を設けて申されずば、ひじりにて申すべし。
住所にて申されずば、流行(るぎょう)して申すべし。
流行して申されずば、家にゐて申すべし。
自力の衣食にて申されずば、他人に助けられて申すべし。
他人にたすけられて申されずば、自力の衣食にて申すべし。
一人して申されずば、同朋とともに申すべし。
共行(くぎょう)して申されずば、一人籠りゐて申すべし。
衣食住の三は、念仏の助業(じょごふ)なり。…
もし念仏の助業とおもはずして身を貪求(とんぐ)するは、三悪道の業となる。
往生極楽の念仏申さんがために、自身を貪求するは、往生の助業となるべきなり。
萬事(ばんじ)かくのごとし、と。

(以上引用終)





 良い意味でいいかげんだ、おおらかだと感じる人が多いようだが、そういうことではない。


念仏のための人生というスタンスから発せられた当然自然の言葉で、良い意味でも悪い意味でも「いいかげんさ」は微塵もない。

 人生のために念仏があるのではなく、念仏のために人生があるという、
発想の驚くべき逆回転
がなされている。

これを「ばかげている」とおもったら、永久に真実は分からない。

念仏の助業とおもはずして身を貪求するは、三悪道の業となる。
の教えを迂闊に読み過ごしてはいけない。
念仏のための人生というスタンスはそう簡単には身に馴染まないからだ。ここが教えの肝だ。

この逆回転こそ転法輪だ。

ちなみに「衣食住の三は三悪道なり。…三悪道をはなれんと欲せば、衣食住の三つをはなるべきなり」と断言し実行した一遍上人は、この法然上人の教えを知った上で「すべて捨てる」決意をしたのだとおもう。



釈尊が、一切皆苦から始まる四諦八正道を説いた初転法輪の中に、この逆回転の構造の原型がある(初めてこの世に現れた)、とおれはおもう。

 この構造をおれに適応すれば「人生のためのヴィパッサナー実践ではなく、ヴィパッサナー実践のための人生」となる。

 禅の公案にも
この逆回転の転法輪
が説かれている



 坐禅して仏になると言う馬祖に、師匠の南嶽は瓦を磨いて鏡にすると言う。

馬祖「瓦を磨いても鏡にならんでしょう」
南嶽「坐禅して仏になるのはどうなんだ」





 幸福な人生という目的、坐禅はその手段。
このありがちな固定観念は絶対捨てなければならない。



 坐禅を作仏の手段としてはいけない。ヴィパッサナーもおなじこと、手段ではない。
先入観
人生のためのヴィパッサナー実践
を勇気を出してキッパリ捨て
ヴィパッサナー実践のための人生
に変換する。

 この独り決めができないと「俺・俺のもの」を後生大事に温存したまま懸命に努力することになり、ブレーキを踏んだままアクセルを吹かすような具合となり、真の修行は始まらない。


















(黒谷上人語燈録10 七箇絛起請文より引用します)

(さとり)なくして師となるは、これ梵網(ぼんまう)制戒(せいかい)なり。
黒闇(こくあん)(たぐい)の、(おのれ)の才を(あらは)さんと(ほつ)し、浄土の教をもって藝能となし、名利を貪り檀越(だんをつ)を望み、(ほしいまま)に自由の妄説をなして、世間の人を誑惑(わうわく)し法を(あざむ)くの(とが)(こと)に重し。
これ(いづく)んぞ國賊(こくぞく)にあらずや。











論議はこれ智者の有なり。
更に愚人の分にあらず。
また諍論(ざうろん)のところには(もろもろ)の煩悩起る。
智者はこれを遠離(をんり)すること百由旬(ひゃくゆじゅん)なり。
(いはん)や一向念仏の行人においてをや。

(以上引用終)


※ 【由旬】ゆじゅん
古代インドでの距離の一単位。帝王の軍隊が一日に進む距離といわれ、約10km、約15kmなど諸説ある。
大辞林

 これ以上言い争っても自他のためにならないと感じたら、すぐ議論を止めるべきだが、言い負かしたいという欲が判断を狂わせ、おれは何度も苦い経験をしました。
論争する者の心には、もろもろの煩悩が生じる。「論争の場から千km離れる」…この態度は基本だとおもう。






一枚起請文

法然上人の教えのなかで、これがもっとも好きです。
有名なものだから、知ってる人も多いでしょうが。


もろこし我が朝に、もろもろの智者たちのさたし申さるる、観念の念にもあらず。
また学問をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。
ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思ひとりて申す外には別の仔細候はず。
ただし三心・四修と申す事の候ふは、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞとおもう内にこもり候ふなり。
このほかにおくふかきことを存ぜば、二尊のあわれみにはづれ、本願にもれ候ふべし。
念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじうして、智者のふるまひをせずしてただ一向に念仏すべし。

(黒谷上人語燈録11)



上記の法然上人「一枚起請文」は手持ちの「佛教聖典」から写した。

家の宗旨は浄土宗なのだが、後で仏壇の引き出しから「浄土勤行集」を出して見てみると、こちらの「一枚起請文」には後書きが付いている。




為証以両手印(しょうのためにりょうしゅいんをもってす)

浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。

源空が所存この外に全く別義を存ぜず。

滅後の邪義をふせがんがために所存を記し(おわんぬ)

建暦二年正月二十三日 源空在御判




力強い。
やはり、これは付いてるほうがいい。











(拾遺黒谷語燈録中 登山状より引用します)
いたづらにあかしくらして、やみなんこそかなしけれ。

昨日もいたづらにくれぬ、今日もまたむなしくあけぬ。…

今いくたびかくらし、いくたびかあかさんとする。…

妻子眷属は家にあれどもともなはず、七珍萬寶はくらにみてれども益もなし。
ただ身にしたがふものは後悔のなみだなり。…

なんぢ仏法流布の世に生れて、なんぞ修行せずしていたづらにかえりきたるや











最後に、法然上人道詠一首。

逢仏法捨身命といへる事を

かりそめの色のゆかりの恋にだに逢ふには身をも惜しみやはする



はかない 男女の色恋にさえ命がけになれるあなたが、

仏法と巡り合うのに身命を惜しむ道理があろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (My Favorite Songs) 

 

七色仮面。テーマソング。

♪七つの顔のおじさんのほんとの顔はどれでしょう

このあほらしい曲を、今でも空で歌えてしまう自分が、悲しいW。

 

月光仮面でも少年ジェットでも同じやけど、今見ると、えっ?なんじゃこりゃ?ってなる。
あまりのチープさに唖然としてしまうが、当時は
 
何?このパイナップル頭
 
とも何とも一切思わずに、手に汗握り夢中で観てた。

子供って、スッゲーあほやん。
 

 



 七色仮面役は、千葉真一(新人)となってる…古!




 
 
 
 
ついでに少年ジェットも。

♪勇気だ 力だ 誰にも負けないこの意気だ やあ!

やばい、これも歌えるわ…

 

 
 
 
 
これ作った当時の大人たちよ、
 
少年ジェットこそまことの少年の姿である!
 
って、んなわけないでしょうに。

 


Shonen JET

 

 (過去記事統合増補編集再録)

修証義 愛語よく廻天の力あることを学すべし


続けて(修証義 第二章より)

仏祖の往昔(おうしゃく)吾等(われら)なり、

吾等が当来(とうらい)は仏祖ならん。
(以上)

 

すでに成った聖者と、

これから成る聖者ってことね。




(修証義 第三章より)
西天東土(さいてんとうど)仏祖正伝(ぶっそしょうでん)する所は恭敬(くぎょう)仏法僧なり。 …

仏は是れ大師なるが故に帰依す、
法は良薬なるが故に帰依す、
僧は勝友なるが故に帰依す



(修証義 第四章より)
若し菩提心(おこ)して後、六趣四生に輪転すと(いえど)(その)輪転の因縁皆菩提の行願となるなり、(しか)あれば従来の光陰は(たと)(むなし)く過すというとも、今生の未だ過ぎざる(あい)だに急ぎて発願すべし


愚人(おも)わくは利他を先とせば自らが()(はぶ)かれぬべしと、(しか)には非ざるなり、利行は一法なり、(あまね)く自他を利するなり。


(むか)いて愛語を聞くは(おもて)を喜ばしめ、心を楽しくす、面わずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず、
愛語廻天かいてんの力あることを学すべきなり。



※【愛語】
《梵priya-vditの訳》菩薩が他者に対して心のこもった優しい言葉をかけること。人々を救いに導く実践行である四摂事(ししょうじ)の一。 (大辞泉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(修証義 第五章より)
光陰は矢よりも(すみや)かなり、身命は露よりも(もろ)し、(いず)れの善巧方便(ぜんぎょうほうべん)ありてか過ぎにし一日を復び(かえ)し得たる、
(いたず)らに百歳生けらんは恨むべき日月なり、悲むべき形骸なり、
(たと)い百歳の日月は声色(しょうしき)奴婢(ぬび)と馳走すとも、(その)中一日の行持を行取(ぎょうしゅ)せば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の他生をも度取すべきなり、
(この)一日の身命は尊ぶべき身命なり、尊ぶべき形骸なり、此行持あらん身心自らも愛すべし、自らも敬うべし、
我等が行持に依りて諸仏の行持見成(げんじょう)し、諸仏の大道通達(だいどうつうだつ)するなり、
(しか)あれば即ち一日の行持是れ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり。




※修証義
曹洞宗の信仰指導書の一。1890年(明治23年)成立。道元の「正法眼蔵(しようぼうげんぞう)」より文章を選び、五章三一節に整理したもの。(大辞林


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  (My Favorite Songs)  

 米米クラブ

「SHAKE HIP!」

 


米米CLUB プロは大変だ / てんぱってんだよ

 

(過去記事統合編集再録)