仏教では、よくことばを月差す指にたとえる。
もし人に、月がはじめから見えなかったら月ということばは生まれないだろう。
では、一人だけに月が見えて、他の誰にも月が見えなかったらどうか。
月ということばは、やはり生まれない。
たとえ、そのたった一人月が見えている人が、月ということばを作っても、彼(彼女)以外の誰もその言葉の意味を理解できないから、誰も使おうとしないだろう。
交通しないことばは、たちまち消えてしまう。
さて、ここに存在に関するひとつのイメージがあるとしよう。
このイメージには名前がない。
ことばとして交通するほどたくさんの人にイメージされたことが、かって一度もないからだ。
例外者によって時々イメージされることはあるので、その度に、その認識者が苦心惨憺してことばを作る。
当然、交通しないからすぐ忘れられてしまう。
あるいは誰かが紙に書き残したために、ことばは残っていても、意味不明なものになり、誤解された呪文となって漂っている。
「月差す指」に、指を見て月だと思い込むからだ。
圧倒的多数の人々にとって、昔も今も理解不能の忌まわしい呪文にすぎない。
この世の一切は苦である。
あらゆるものは無常である。
永遠不滅の魂は妄想である。
圧倒的多数の人々は、この聖言を自分たちの願望を打ち砕く呪いのことばとして蛇蝎のごとく忌み嫌い、徹底的に無視している。
別の時代、別の場所で新たな例外者がそのイメージに達する。
その人が、その意味不明な呪文を聞くと、パッと元の意味が分かる。
この運動は、何千年も繰り返されている(そのおかげでブッダの教えは2千年以上もの間真剣に伝えられてきたのだ)が、常に単発的であるため、世界を変えるほどの力になったことはない。
だから世界は今も……
この惨たる世界の有様を……
(おまけ)
ピーターとゴードン
「愛いなき世界」
フライング・マシーン。
「笑ってローズマリーちゃん」
メアリー・ホプキン。
「グッドバイ」
ヒートウエイブ。
「ブギー・ナイツ」
(過去記事統合増補編集再録)