弥陀を信じる親鸞にとって |
修証一如は自明のこと |
に過ぎなかった。 |
そのために
一切の事にあしたゆふべに廻心して
往生をとげさふらうべくば、
ひとのいのちはいづるいき、
いるほどをまたずして
をはることなれば、
廻心もせず柔和忍辱のおもひにも
住せざらんさきにいのちつきば
摂取不捨の誓願は
むなしくならせおはしますべきにや
という見事な理屈を後からつけたとおもう。
(この親鸞の言葉は「歎異抄」第十六章から引用しました)
ただし、理屈はこれで正しくとも、
日常言語は数学のようにいちいち定義してから用いないため、
たとえば廻心、たとえば菩提心、言葉の一つ一つが多義で、
種々の解釈のズレ、ズレの連鎖、誤解、邪義が生じる現実の問題がある。
その対応でいくつも修正条項を付け加えるため、
スッキリしないわかりにくい教義になる。
信心のみといったけど、 |
行いも大事だからね |
と云わざるを得なくなる。 |
(これはキリスト教でも同じ問題が起きているとおもう)
阿弥陀仏は元人間で神ではないという設定も、
信仰者にとって、実際に意味を持つものではない。
[おまけ]
(過去記事統合増補編集再録)