哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

眠りたいとおもうと眠れなくなる←に働く一般法則。

 今0時過ぎで、明日早朝から仕事があるとする。
一刻も早く眠りたいのだが、そう思えば思うほど目がさえてくる。

眠ることに集中する努力が、かえって眠りを妨げてしまう。

ところが、いますぐ眠りたいという執着から心が離れると、いともたやすく自然に眠りに入ることができた。


誰しもあるこういう経験の、一般法則は何だろうと考えることが大切だとおもう。

羊を数えればなんとか眠れるというようなhow-toで済ましてしまうにはもったいない貴重な体験だとおもうからだ。

この場合、眠りに執着すると、上手く眠れなくなるのだが、
一般原則として「何に」執着すると、いつも上手くいかなくなるのかということ。

 

 

 

 

 

 ターン・プッタタートは
で仏教の核心をきわめて明確に説いている。

以下に引用します。

 

 

 

 

 

 

智慧とは、何も「自分」「自分のもの」と強く捉えない、もっと強い言い方をすれば「俺は」「俺の」と執着しないということです。
 
これはパーリ語で繰り返し語られた仏教の核心である項目です。何ものも、自分、自分のものと執着しない。ブッダは、この短い言葉は、八万四千項目あると言われる教えのすべてを包含している仏教の核心だと繰り返しています。八万四千項目すべてはこの短い「何ものにも、私、私のもの、と執着しない」という一語に集約されてしまいます。
 
 教えのすべてを一つにまとめたらどのようになりますかと、質問する人があった時、ブッダはそう答え、更にこれを聞いただけですべての項目を聞いたのと同じ、この項目を実践するならすべての項目を実践したのと同じ、この項目の結果はすべての項目の結果と同じと付け加えました。
(引用終)

 

 

 

 

 つまり、以上で仏教のすべてが言い尽くされている。

 

 

 

 

 あとはこの意味だが、さらに実践に関して老婆親切に説明してくれる。その部分。

 

 

 

サマーディも同じです。もし執着で右往左往しているなら、心を集中させることはできません。

(引用者注:たとえば、眠りたいと執着すると眠りに集中できなくなる)

 

 

 

 

どんなにやってもうまく行きませんから、形式的にその場しのぎでやっているだけです。それは儀式としての瞑想でしかありません。

(引用者注:たとえば、羊を数えたりする)

 

 

 

 

 しかし心を執着しない方向へ向き変えれば、自然に集中できます。内から安定します。何かをしていても、話していても、歩いていても、食事をしていても、何をしていても内部は集中して安定しています。つまり執着のない心は自然に集中します。幸福であり、機敏であり、いつでも考えたり心を使って働くことができる状態です。だから山を降りるように簡単に集中できます。
 
 ここで智慧と呼んでいるもの、それが最高の智慧です。何も私は、私の、と執着しないということが最高の智慧です。どうか、何も私は、私の、と執着するべきではないという智慧、一般的な原則を憶えてしまってください。それを一呼吸ごとに明確に自覚していれば、苦や煩悩が生じるのを防ぐことができます。これが智慧で純潔になる、智慧で苦を滅尽させる一般的な原則です。

……………………………………

 

 

 

『あなたの姿が見えたときは見るだけ。あるいは声が聞こえたときは聞くだけ。あるいは臭いがしたときは嗅ぐだけ。あるいは舌で味を感じたときは味わうだけ。あるいは皮膚に触れたときは触れるだけ。あるいは心で感情を感じたり考えたりしたときは、普通に自然に感じ考えるだけ。こうできるようになれば、その時あなたはない。あなたがなければ走り回ることも、どこかに止まることもない。これが苦の終わりである』

(引用終)

 

 

 

 

 

俺が見た

俺が聞いた

俺が嗅いだ

俺が味わった

俺が触れた

俺が感じた

俺が考えた

 

 

 

 

 

ではなく
 
(俺が)見た

(俺が)聞いた

(俺が)嗅いだ

(俺が)味わった

(俺が)触れた

(俺が)感じた

(俺が)考えた

 

 

だと気づく!

 

 

 

 

 

 解けない問は、答を探しても解決しない。
問が消えることで解決していることに気づくのだ。


ブッダはそう言っているとおもう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 確か澤木老師の提唱で聴いた話だと思うが、
 
昔、日照りが続くと、どの水田にどれだけ水を引くか問題を解決できず、殺し合いの喧嘩まで起きた。
ところがある時、水喧嘩の真っ最中に大雨が降ってきた。
それでみんな取っ組み合ったままポカンとしてしまった。
 
「問題自体が消えた」と気づいたからだ。

という意味の古歌がある。

 

 

 

 

 

 

「俺、俺のもの」幻想が消えると、ちょうどそんな感じになるのだとおもう。

 

ここのところを、スマナサーラ長老は

 I feel

         じゃなくて

         there is feeling

         なんです

 

と親切に教えてくれている。

 

 

 

 

 

 

ただし、
「俺、俺のもの」を手放す芝居をするのは最悪だ。
これに比べれば、自己中丸出しの人間が善人に見えるほど酷い悪だ。

 

無我の名のもとに自分の会社や国に滅私奉公してグループボケする→→→
→→そのうち結局抑えきれない欲望は、滅私奉公等の無我風言辞を、

責任を回避しながら私欲を満たす狡猾な手段として用いるようになる。

それでは、まだ我利我利の利己主義者でいたほうがずっとましだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実践には
一呼吸ごとに
「欲しいものはない、なるべきものはない」
という確認がある。この安定した基盤の上でのみ
「見るだけ聞くだけ嗅ぐだけ触れるだけ味わうだけ感じ考えるだけ」
一言でいえば
 
気づきで止める
 
が可能になる。






 当然ながらこの実践は、
夢と希望がある人達、つまり欲しいものがあり、なりたいものがある人達に不相応です。
たとえどれだけ気力があっても、そういう人達はまだできません。



 気力のない人は、別の意味で尚更できません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おまけ)

ブロンディ。
映画『アメリカン・ジゴロ』の主題歌「コール・ミー」
 
 ブロンディ一番の魅力は、なんといってもボーカルのデボラ・ハリーだね。
 
 
 
 
デボラ・ハリーもう1曲。
「ハート・オブ・グラス」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
トト。
 
 当時洗練された大人ロックの代表といわれたトト。
腕っこきのスタジオミュージシャンが集結してシンセサイザー等の電子音を自由自在に駆使して量産するマネージメントロックは肝心のソウルが感じられないものが多かったが、トトは商業性とソウルを兼ね備えたバランスの良いグループだったとおもう。

ちなみにウォシュレットのTOTOとは無関係です。

「アフリカ」
 
 
 
 
もう1曲。
「99」

 

(過去記事統合編集再録)