上根は妻子を帯し、家にありながら著せずして往生す。…下根は万事を捨離して往生す。
(一遍 播州法話集)
これを初めて読んだときはビックリ!した。
後で気づいたが、上根下根の価値が2回ねじれていたのだ。
つまり、一遍以前に伝統的な浄土教学が、上根下根の概念に対する最初の「価値の逆転」を試みている。在家修行者は出家より勝れていると主張したがっている。
浄土三部経を素直に読めば、そんなおかしな判断はできないはずなのに。
いまでも非常に多くの人が、公然と肉食妻帯した親鸞こそ最も勝れた仏教者(上根)だとおもっている。
一遍は自分の実体験・実感から、意味が逆転した言葉はそのままにして、もう1回ひっくり返し「自分は下根だから万事捨離する(出家する)」と宣言した。
それで上記の妙にねじれた表現になったのだとおもう。
上根は妻子を帯し、家にありながら著せずして往生す。…下根は万事を捨離して往生す。
の後に
我等は下根のものなれば、一切を捨てずば、定んで臨終に諸事に著して往生をし損すべきなりと思う故に、かくのごとく行ずるなり。よくよく心に思量すべし。
と続く。
では「一切を捨てる」とは、具体的に何を捨てるかというと、一遍は衣食住を捨てるのだと言う。
衣食住の三は三悪道なり。衣装を求めかざるは畜生道の業なり。食物を貪求するは餓鬼道の業なり。住所をかまへるは地獄道の業なり。しかれば、三悪道をはなれんと欲せば、衣食住の三つをはなるべきなり。
ちょっと厳しすぎって気がしないでもない。
(一遍は栄養失調で死んだらしい)
しかし一方でこんなことも言う。
決定往生の信たらずとて、人ごとになげくは、いはれなき事なり。凡夫のこころには決定なし。決定は名号なり。しかれば決定往生の信たらずとも、口にまかせて称せば往生すべし。この故に往生は心によらず、名号によりて往生するなり。
ん?厳しくないのか…
信心決定なんて必要ないよ、ただの空念仏でオッケー、それだけであんた極楽行き決定ですよと主張している。
親鸞だってここまでは言ってないからね。
自分には厳しく人には優しくか…?…よくわからん人だ。
…なんか惹かれるけど。
【信心決定】しんじんけつじょう
阿弥陀仏による救済の信仰が心に確立すること。
【空念仏】からねんぶつ
信仰心からでなく、口先だけで唱える念仏。
[ 大辞泉 提供:JapanKnowledge ]
※青字引用は一遍「播州法話集」、仏教聖典・一遍上人集 から
実をいうと、上根下根の談義はムダ話だとおもう。
ブッダの本来の教えは、上根だろうと下根だろうと関係なく、万事を捨離(貪・瞋・癡を捨てきる)しなければ救われないからだ。
できる・できない談義もムダ話だとおもう。
仏教の門は、できようとできまいと今やるしかないと心定まった者にしか開かれないからだ。
生ぜしもひとりなり。
死するも独りなり。
されば
人と共に住するも独りなり。
(一遍 門人傳説)
(My Favorite Songs)
T・レックス。
官能的な歌い方が、当時はいいと思った。
今聞くとちょっと不自然に感じる。
しかし、曲はいい。
20th Century Boy (2012 Remaster)
T.Rex - Telegram Sam - 2012 Remastered
(過去記事統合増補編集再録)