たいていの人間は、
その何物にも勝って実がないものに頼って生きてる。
(新共同訳エレミア書18,4)
陶工とは神、粘土の器は人類を意味する。
いっぽう、人間は
自分の生きたいように生きるほかないのだ。
それは自由じゃない。
ただ人間はそのように作られてるだけだ。
どうしてそんなものが自由だろう。
そして、生きたいように生きた結果がどう出るか
ー祝福か破滅かーは人間の能力の埒外にある。
話はちょっと飛ぶが、
キリスト教と仏教は、まったく似てない教えのようで、
実際は、ほとんど同じ場所に人を導くよ。
聖なる行為の意味を伝達するとき、イエス・キリストはユダヤ教のドグマを通じて語らざるを得なかったし、ブッダはバラモン教のドグマを借用せざるを得なかった。
両聖者の教えは、まったくあいいれない敵のように(とくに厳格な一神教の形態をとるキリスト教サイドから)見られてもきた。
イエス・キリストとブッダは、互いの存在をたぶん知らなかったが、しかし、両者の、世界に対する姿勢には不思議な一致がある。
二人の聖者の行状から推理するとき、両聖者の人々に対する思いは、同じではなかったか。
包まれた包装紙の絵柄はちがうが、贈りものの中身は同じだと、おれには思える。
そして、分断多様化する中期仏教内部から、これと対応類似する出来事が現れた。
同じ仏教でありながら、これっぽっちも似てない瑜伽行派と浄土教の関係がそれだ。
(My Favorite Songs)
ダイア・ストレイツ「悲しきサルタン」
Dire Straits - Sultans Of Swing (Chorus, 14.10.1978)