(禅に聞け 澤木興道老師の言葉 櫛谷 宗則編)より引用します。
科学者の実験──それがわれわれの場合では修行である。実験のない科学がツマラヌように、修行のない仏教はツマラヌ。
(引用終)
おれは仏教徒だが、仏教、キリスト教、イスラム教が深奥において共通する唯一の「宗」をもっていると思う。
しかし、キリスト教とイスラム教は極度に信仰のみを重視して、「出入息念経」のような体系的修行はないに等しい。
清沢満之は『宗教哲学骸骨』の中で
信仰はこれを改めるのに規範がない
と言っている。
つまり、信仰だけのキリスト教徒とイスラム教徒は互いを深奥において理解する規範がない。この種の規範は体系的修行で保証される。
この数日「ヨハネの黙示録」を読み直している。
ラオデキヤの教会に与えられたイエスキリストからの言葉として、ヨハネは
「わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう」(第3章15~)
と書いている。
この人たちは、三大宗教が深奥において共通する唯一の「宗」だと理解する規範がないので、かえって融和的なものすべてを「熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるい」ものと断じ「口から吐き出」してしまう。
信仰aと信仰bは互いに敵対排斥衝突するのが大方の常となる。
マザー・テレサは、死の看取りの場で、相手の信仰する宗派を訊いたという。
そして、ヒンズー教ならガンジス川の水をかけてあげた。イスラム教ならコーランを読んであげた。
テレサ自身はむろん、キリスト教を誰よりも深く信仰している。
彼女のこのような行動に開示されている、深奥の宗を学び取りたいと思う。
ブッダの教えに筏のたとえがある。
人格神を奉ずるユダヤ教、キリスト教、イスラム教等の最大の弱点は、筏を捨てられないことだ。
迷いの川を渡り終えて陸路を行くときになっても、重い筏を後生大事に抱きしめて、不自由な足取りで歩いている。
重い筏とは、もちろん唯一絶対の神のことだ。
ユダヤ教徒とキリスト教徒とイスラム教徒は、この筏を背負って殺し合う。
おれはマザーテレサを偉大な人として尊敬するが、その彼女でさえ、自分の信じる唯一絶対の人格神にたいして筏という認識は最後まで持たなかったとおもう。そこに、愛だけでは克服しにくい問題がある。
イスラム教は「神に息子なんかおるかい」と言っている。キリスト教徒は「それも正しい」とはおもえないだろう。
仏教徒から見ると「つまらんことでいがみ合って」とあきれるが、一神教の人たちはそれで殺し合いまではじめる。「それは違う。愛の教えがあるから…」といかに弁じても、一神教徒達の殺し合いの歴史は覆うべくもない。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教等が主張する、人間に話しかけたり命令したりする絶対人格神とは、「存在の意味」を俗耳に入りやすいように対象化してみせたものだ。
神の現存を実感している信仰者が、そのことに気づいていようといまいと、彼・彼女のしていることはそういうことなのだ、とおれは思う。
しかし、これには極めて大きな無理がある。
「存在の意味」は、決して対象化されえない唯一のものだからだ。
その無理のために、絶対人格神宗教においては、不寛容で愚劣な思想的混乱の大パノラマが悲惨に繰り返される。
「真実の神はひとり」という一点で、すべての絶対人格神宗教の主張は一致している。ところが信者達の俗物的習性から、自分の神だけが本物で他のは悪魔だと言いあい、互いにいがみあい、終には殺しあう激甚な副作用が実際に繰り返し生じてきた。
人類の習性「俺、俺のもの」が変わらない限り、これは過去の愚行ではない。今は殺し合いに疲れて一服してるだけで、またぞろおっ始めるに違いない。
俗耳を容易にひきつけてきた絶妙手の代償はあまりにも大きい。
(過去記事統合増補編集再録)