哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

主張2

陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直す
(新共同訳エレミア書18,4)

陶工とは神、粘土の器は人類を意味する。





いっぽう、人間は自分の生きたいように生きるほかないのだ。


それは自由ではない。


ただ人間はそのように作られているだけだ。


どうしてそんなものが自由だろう。


そして、生きたいように生きた結果がどう出るかー祝福か破滅かーは人間の能力の埒外にある。





人の心はほかの何物にも勝って実がない。誰がそれを知りえようか
と聖書に書いてある。(エレミア書17-9)


たいていの人間は、その何物にも勝って実がないものに頼って生きている。

仏陀

良く整えられた自己こそが唯一頼れるものだ

と教えた自己とは、自分の心のことではないのは確実だ。

自分の心は、まるであてにならないのだ。








話はちょっと飛ぶが、
キリスト教と仏教は、似ていない教えのようで、
実際は、ほとんど同じ場所に人を導くよ。


聖なる行為の意味を伝達するとき、イエスキリストはユダヤ教のドグマを通じて語らざるを得なかったし、釈尊バラモン教のドグマを借用せざるを得なかった。


両聖者の教えは、まったくあいいれない敵のように(とくに厳格な一神教の形態をとるキリスト教サイドから)見られてもきた。


しかし、
エスキリストと釈尊は、互いの存在を知らなかったが、両者の、世界に対する姿勢には不思議な一致がある。
二人の聖者の行状から推理するとき、両聖者の人々に対する思いは、同じではなかったか。
包まれた包装紙の絵柄はちがうが、贈りものの中身は同じだと、おれには思える。









そして、仏教内部でも同様のことが起きる。
同じ大乗仏教なのに似ていない禅宗と浄土の教えの関係。


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