悟りとは、滅苦の実現だ。
滅苦の実現に、苦聖諦の実感は必須の前提だ。
苦聖諦の実感によって生じる特別なエネルギーだけが、
サティの持続を可能にするからだ。
呼吸さえあれば、誰だってその場ですぐに
サティを始められるが、
それが3分と続かない、
苦聖諦の助けなしでは。
「命とヴィパッサナー
それは一つなのです」
とカンポン・トーンブンヌムさんは教えてくれる。
カンポン・トーンブンヌムさん「死・それは命の最後の授業」
気づきの実践1ヶ月で悟ったカンポンさん。
脊髄損傷で首から下がほとんど動かなくなったカンポンさん。
滅苦を求めて十六年間仏教を本で学んだが、
「ただ知識だけでした。苦しみはそのまま」
「地図はあるけれどまだ旅には出ていない、そんな感じでした。行きたい目的地には程遠かった」
しかし、過酷な体験で苦聖諦を体得したカンポンさんは、手のひらをひっくり返す感覚に気づき高めていく正しい実践を1ヶ月ほど必死に続けて、ついに「今ここ」を体得し滅苦を実現する。
1ヶ月!!
ブッダは
「放逸にふける者は 生命ありとも すでに死せるにひとし」(ダンマパダ21)と説いてる。
「サティが失われている間は死人に等しい」という意味だ。
「命とヴィパッサナー
それは一つなのです」
も、そういう意味だ。
(過去記事編集再録)