哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

「愛vs慈悲」の分析 スマナサーラ長老法話

スマナサーラ長老の法話20180216「慈悲について」
 
 
 
【メモと感想】

慈悲の世界に判断・好みはあるはずがない。

自分の判断・好みで動くと、社会の攻撃を受けて壊れる。
他人の判断で動くロボットになると、自分の判断プログラムとぶつかって壊れる。

愛は、破壊物語をまとめるためのツール。
「愛は最後に必ず勝つ」で物語は止まる。そこから先はない。
黙示録は物語の典型。

愛と慈しみは似てない。
愛は憎しみの反対というだけで、もう一つの判断にすぎない。
悪魔を選ぶか神を選ぶかの判断。
悪魔を選ぶとは、自分の判断・好みに従うこと。
神を選ぶとは、慈しみを選んだのじゃなくて、他人の判断を選んだことになる。




自我という気持ちが消えたら、そこにあるのは慈しみなんです。



この世界は自我のホームグラウンド。
自我削除プログラムは
書いても作動しない。

これについて、たとえ話を一つ。
大多数の人々は、セルフスタンドの洗車機を使った経験があるとおもう。
車を指定位置に停め、エンジンを切り、サイドブレーキを引く。これで車が勝手に動きだすこと絶対ないとはっきり頭では分かってるのに、洗車機が前後に動くと、たちまち車が滑り出したように錯覚する。車のほうがするする動く感覚をどうしても止めることができない。自我は錯覚だと理屈で理解しても、自我の実感は一向に止まらない。自我削除プログラムは書いても作動しない。のだ。
 
 
この自分の失敗を学ぶと何か見えてくる。

敵がくれた情報で戦争に行ったら負けるに決まってる。

「ありのままに見る」「判断しない世界」
言葉だけで正しくてもダメだということ。

みんな悪人の塊、自我の塊、互いに殺し合いやりたくてたまらないこの世界。

ブッダの実践方法
「わたしが幸せでありますように」等で自我をだます。
「生きとし生けるものが幸せでありますように」で錯覚に過ぎない自我はやがて消え、慈しみが現れる。


生命に自我があるから、すぐ生きるプログラムが恐ろしいものに変わり、苦しみが起こり苦しみで終えるプログラムになる。
だから慈悲を入れることが欠かせない。ほかの答えはない。

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(My Favorite Songs)
植木等「スーダラ伝説」

 

(過去記事編集再録)