哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

人間の脳は常に「我」という毒霞がかかっている

スマナサーラ長老 パティパダー巻頭法話

快楽におぼれると

より引用させていただきます。

 

……………………
欲だけを目指す人は頭に霞がかかっているので、仕事や家族のことなど毎日の生活も乗り越えがたい大変なチャレンジだと勘違いします。

 欲に足を引っ張られることがなければ、仕事のことも家族のことも他の社会のことも、小さな問題に見えるはずです。
 それらは、ヒステリーを起こしたり神経質になったりストレスを溜めたり精神的に病気になったりするほどの問題ではないことが、よく理解できます。その人には心の余裕も落ち着きも生まれるので、より高い次元で人生を観察して、智慧が現れるチャンスを得ることができます。
 仏陀の教えを理解しようと思うならば、自分の人格を発展させ、清らかな心を作るためにチャレンジしなくてはならないのです。
(引用終)

 

 

 

 

 

 

 欲で自滅すると頭で理解(この段階に達するのがまず難しいのだが)しても、それだけでは欲から自由になれない。「俺、俺のもの」という毒霞が脳みそを覆って、常に麻酔を効かせているからだ。

 

ネットで今日のニュースを見てみると

「教師が路上で女性にわいせつ行為をして逮捕」と。

この種の欲に駆られての愚行は、性別年齢職業国籍等にかかわりなく、世界各地で毎日切りなくニュースになって流れている。

 

 

わかっていて自滅するほうを選ぶなんて、完全に「どうかしてるぜ!」だが、欲の威力はそれほどに強いと、おれ自身も日々痛感している。

 

真のチャレンジはそこから先にある。

 

 

 

快楽におぼれると

より、続きを引用させていただきます。

 

……………………
 お釈迦様の侍従であった阿難陀(ânanda)尊者が托鉢に出かけたとき、ボロ服を着て乞食をしている若者が目に入りました。
 若いのに、食い物を探すことしか頭に余裕がないこの子のことを心配して、彼に「君、そんなに苦労しないで、出家して修行してはいかがでしょう」とたずねました。
 「出家させていただけるならば、ぜひお願いします」と彼が答えました。

 その若者は、ボロ服と乞食道具をある木の下に片づけて、出家し修行を始めました。
 きれいな衣を着て、普通にごはんをいただいて修行する若僧に、たびたび欲が出てきます。
そのとき、戒律を守らなければならない出家がいやになって、還俗したくなります。そのとき彼は、あの木の下に行って、自分の人生を観察します。

 「おまえは欲におぼれて還俗したいのだろう。ではもう一度、この汚い服を着て乞食をやって、楽に生きてみなさい」と自分に問い返します。そうすると、なんで自分はみっともない生き方に戻りたがるのかと思い、欲が消え、自分は清らかな仏道に励むべきだと気持ちが変わりました。

 これを何度も繰り返すので、比丘たちの間でも有名でした。

 「君はなぜ、あの木の下にしょっちゅう行くのですか」と聞かれると、「私の先生のところに行って、いましめてもらうのです」と答えました。

 やがて心の葛藤にもうち勝って、彼は悟りを開きます。
 それっきり、木の下へは行きませんでした。他の比丘たちに「君は先生のところに行かないのか」とからかわれたとき、もう先生の用は済みましたから行く必要はないのですと答えました。

 お釈迦様もこの若者を、よく頑張って悟りを開いた大変立派な人だと認めました。
このエピソードのボロ服は、人間の成長の足を引っ張る欲、世俗的な快楽を象徴しています。
(引用終)

 

 

 

 

 

これに関して、お釈迦様は次のようにも言っている。


 いかに欲の禍が甚しいものであることを知っても、欲以外の幸福に達しない間は、どうしてもこの欲につきまとわれる。これは余の経験であるが、余も亦、さとりを得るまでは、常に欲に追われていた。

(現代語仏教聖典 第14章1,2 強調は私です)

 

 お釈迦様のことばは、お釈迦様御自身が深く体験し完璧に知り抜いた末に発せられている。

 

 

 あれこれ考えて心が乱れ、愛欲がはげしくうずくのに、愛欲を淨らかだと見なす人には、愛執がますます増大する。
この人は実に束縛の(きずな)を堅固たらしめる。

(ブッダの真理のことば ダンマパダ349 中村 元訳)


 あれこれの考えをしずめるのを楽しみ、つねに心にかけて、(身体などを)不浄(きよからぬもの)であると観じて修する人は、実に悪魔の束縛の(きずな)をとりのぞき、断ち切るであろう。
(同350)

 

 

ところが、

 

愛欲は淨らかだ。

人体は美しい。

世俗を礼賛せよ。

 

というのが昨今の流行だ。

 

 

これは、今に始まった事ではない。

抑える力が弱まれば、いつでも飛び出してくる強力なバネ運動のように、ソドムとゴモラの時代から、繰り返されてきたのだ。

 

この何度も戻ってくる、ワンパターンの流行に乗って

 

われわれが嫌いなものは、すべて良くないものだ!

すぐに分からないものは、くだらないものだ!


と大合唱しているのが現代の状況だ。

 

 

当然

 

愛欲を淨らかだと見なす人には、愛執がますます増大する。
この人は実に束縛の(きずな)を堅固たらしめる。

 

ということになっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (My Favorite Songs)  

シェリル・クロウ
「デジャ・メイク・ハー」

 当時聴いてたのは、もちろんレッドツェッペリンのorig.だけど、このシェリル・クロウもいい味出してる。


Sheryl Crow - D'yer Mak'er (Led Zeppelin cover) (Live on 2 Meter Sessions)

 

 

(過去記事統合増補編集再録)