哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

すべての人間は頭に霞がかかっている

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欲だけを目指す人は頭に霞がかかっているので、仕事や家族のことなど毎日の生活も乗り越えがたい大変なチャレンジだと勘違いします。

 欲に足を引っ張られることがなければ、仕事のことも家族のことも他の社会のことも、小さな問題に見えるはずです。
 それらは、ヒステリーを起こしたり神経質になったりストレスを溜めたり精神的に病気になったりするほどの問題ではないことが、よく理解できます。その人には心の余裕も落ち着きも生まれるので、より高い次元で人生を観察して、智慧が現れるチャンスを得ることができます。
 仏陀の教えを理解しようと思うならば、自分の人格を発展させ、清らかな心を作るためにチャレンジしなくてはならないのです。
(スマナサーラ長老 パティパダー巻頭法話No.61より)


 欲で自滅すると理解しても、人は欲から自由になれない。おれは日々痛感している。自滅するほうを選ぶなんて「どうかしてるぜ!」だが、欲の威力はそれほどに強いってこと。
真のチャレンジはそこから先にある。
ブッダも「これは私自身の体験だが、解脱するまで常に欲に追われていた」と教えている。


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 お釈迦様の侍従であった阿難陀(ânanda)尊者が托鉢に出かけたとき、ボロ服を着て乞食をしている若者が目に入りました。
 若いのに、食い物を探すことしか頭に余裕がないこの子のことを心配して、彼に「君、そんなに苦労しないで、出家して修行してはいかがでしょう」とたずねました。
 「出家させていただけるならば、ぜひお願いします」と彼が答えました。

 その若者は、ボロ服と乞食道具をある木の下に片づけて、出家し修行を始めました。
 きれいな衣を着て、普通にごはんをいただいて修行する若僧に、たびたび欲が出てきます。
そのとき、戒律を守らなければならない出家がいやになって、還俗したくなります。そのとき彼は、あの木の下に行って、自分の人生を観察します。

 「おまえは欲におぼれて還俗したいのだろう。ではもう一度、この汚い服を着て乞食をやって、楽に生きてみなさい」と自分に問い返します。そうすると、なんで自分はみっともない生き方に戻りたがるのかと思い、欲が消え、自分は清らかな仏道に励むべきだと気持ちが変わりました。

 これを何度も繰り返すので、比丘たちの間でも有名でした。

 「君はなぜ、あの木の下にしょっちゅう行くのですか」と聞かれると、「私の先生のところに行って、いましめてもらうのです」と答えました。

 やがて心の葛藤にもうち勝って、彼は悟りを開きます。
 それっきり、木の下へは行きませんでした。他の比丘たちに「君は先生のところに行かないのか」とからかわれたとき、もう先生の用は済みましたから行く必要はないのですと答えました。

 お釈迦様もこの若者を、よく頑張って悟りを開いた大変立派な人だと認めました。
このエピソードのボロ服は、人間の成長の足を引っ張る欲、世俗的な快楽を象徴しています。
(同上)


※ ブッダも「これは私自身の体験だが、解脱するまで常に欲に追われていた」と教えている。←この[関連記事]
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