哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

主張2

 世間の常識はあげ底になっている。
それも甚だしいあげ底だ。
「人は必ず死ぬ」と聞くと「そんなことは常識だ。誰でも知っている」と答えるのがそれだ。
生者必滅の理が本当に常識なら、こんなにも浅ましい世界であるはずがないのだ。



存在の意味に関して、多くの人々に共通している難点は、
答がわからないことではなく、問題がわからないことだ。
たとえば
「泣いて暮らしても一生。笑って暮らしても一生。同じ一生なら笑って暮らそう」
とみんながいう。
それはいい。
おれだってそうしている。
だけどそれは、人生とは関係ない。
たんなる処世術に過ぎない。
処世術は世渡りのテクニックであって、人生とはなんの関係もないことだ。
この一点を、はっきりさせておきたい。
この、人生に最も必要な感受性がまるで欠落している人のなんと多いことか。
こんな人々と人生についてなんの話ができようか。
死ぬ日まで、ずっと面白おかしく生きられても、そうでなくても、なにほどの違いがあるというのか。
大多数の人々は、そこに天地の差を感じているのだが、それは気の迷いだ。


平均人は、自分の置かれた状況にむやみに適応しようとする。
適応さえうまくいく(席取りに成功する)と、それで我が事成れりと思いこむ。
自分がない。
レベルの低い、悪い意味で無私なのだ。
まず自分を持て。
自分を持って状況に応答するべきだ。
人間が生きるとはそういうことなのだから。
悪い意味で自分がない人間は、適応してから応答しようとする。
そんな仕組まれた予定調和の応答は偽物であり、したがって適応も本物ではないのだ。
自分のちゃんとある人間は応答して、結果として適応することがある。
適応すべきでない状況には、もちろん適応を拒否する。
応答は本物であり、したがって適応も(たとえ不適応に見えても)本物である。


仏教に、こういうストーリーがある。
片目のつぶれたサルばかりの集団に、1匹だけ両目の開いたサルがいた。
このサルは仲間はずれにされた。
みんなと同じじゃないという理由で。
それに耐えられず、とうとう自分で片目をつぶしてしまった。


集団の一部になることで、自分を見出したつもりになることの空しさ。


たいていの人間は、自分が所属すると信じているグループ(会社、国家等)の自由を確保維持することに熱心になる。
自分はグループの構成員として服従する。
この狡猾な処世術を「滅私奉公」などと自讃して、あたかも「無我」と関係あるかのようによそおうが、実態は「グループぼけ」(澤木興道老師)にすぎない。
その見返りに、グループのもっている自由を席順に応じて分割享受する。もっと多く自由を享受するするために組織内の出世競争に奔走する。


しかし、ほんとうに必要なものは個的自由だ。
なぜなら、人間は必ず誰でも死ぬときはひとりで死ぬほかないからだ。
多くの人は、この一点の理解がないために、ばかげきった一生を終える。








人間は何万年も生きてきたが、いまだに死の問題を解決できないままだ。
もし科学技術で不老不死が可能になったとして、さてそれが死の問題の解決になるのか。
問題はいっそう恐ろしい様相を呈してくるにちがいない。


自然状態の人間には、ただやみくもに生き続けようとする以外に生きる目的がない。
これは、達成されることが決してない、むなしい目的だ。
人間が動物のレベルにとどまっているうちは、人生に救いはない。


人生は無意味だという事実を、明晰に知っている人はめったにいない。



宗教は、根本的に存在問題である。
存在問題というものに、人間は逃れようなく直面している。



たとえ話をひとつ。
生理の始まらない少女が
「周りの女たちが生理用品を使っているが、あれは間違っている。生理用品など必要ないことに、どういうわけで気づかないのか。私は生理用品が完全にいらないことを知っている。私には事実必要ないのだ。従って、生理用品などこの社会からなくしてしまうべきである」
と真顔で主張したら、みんなその小娘の幼稚さに噴き出すだろう。
ただし、その少女と頃合いのレベルの方々がいれば、やはり真顔で誠に賛成だと思し召すだろう。
宗教について、類同の感想を抱いている人は多い。
「私は宗教など必要ないことを知っている。私には実際必要ないのだ。ところが周りの連中は、どういうわけかそれに気づかない。ばかなやつらだ」と。


「存在問題への気付き」がいまだ始まっていない人に、宗教の事はてんからわからないのだ。
しかし、多くの人は手遅れになるまで気づこうとしない。


さあ、いよいよ死ぬ、というその時になって気づいても間に合わない。

 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
(おまけ)
ドアーズといえば、あたりまえすぎるといわれようと、まずは「ハートに火をつけて」でしょう。

 

 
 
 
 
あと2曲。
 

 

 

 

 

 

 

 

 ちょっと調べたら、ジム・モリソン(ボーカル)て哲学や詩にのめりこむ人だったんだ。当時そんな話も聞いてた気がするが、記憶から完全に抜け落ちてた(27歳で憤死してる。。尾崎豊タイプ?)

 おれは、ボーカルの歌も楽器の音の一部として聴いてるので、意味はほとんど気にしたことがない。
聴いただけで意味がわかるほど英語力ないから、自然にそうなるだけだけどね。

 

 

 

 

(過去記事統合増補編集再録)