(ブッダ 神々との対話Ⅱ2・7中村 元訳)よりブッダの言葉を引用します。
さとりに至る実践の修養のほかに、感官を制御することのほかに、一切を捨て去ることのほかに、生ける者どもの平安を、われは認めない。
(引用終)
事実は、恐ろしく厳しいものなわけです。
選択の余地などない。
これは事実だから、絶対変えようがない。
不治の病が奇跡的に治癒しても真の治癒ではない。社会に適応して大富豪になっても真の適応ではない。
人間は誰でも結局死ぬから、このような治癒、適応は空しい。
けっして揺らぐことのない心の平安を得ることが、真の治癒・真の適応だ。
さとりに至る実践の修養をやるしかない。
今逃げても、繰り返される苦しみに厭きて、結局やることになる。
やらないという選択肢は無いってことだ。
失敗したらどうしようと悩むなんて意味ない。
だって、やるしかないんだから。
人生に迷いの余地はまったく無い。
じゃあ、今すぐ始めて少しでも早く始末をつけるのが一番カシコってことだ。
考え方をちょっと変えてみたらいいだけだ。
人生に迷いの余地なしってことは、この上ない幸福のはずでしょう。安心のはずでしょう。
でも大多数の人たち(含自分)はそれを喜ばず、先延ばしにして逃げまわっている。先延ばしにしてちゃいかんです。
おれは…分かっちゃいるけどやめられない…って、こんなことばっか言ってちゃ、ほんといかんです。
甚だしい徒労。
人は昔から、いろんな「幸福になる方法」を発明して、あらゆる誤魔化しをやって、この選択肢無しの事実だけは見ないようにがんばっている。
ことごとく徒労、無駄な努力。
心は常にあわてふためき怯えている。
「小さな幸せ」「つかの間の安らぎ」…そんなものも本当はない。そんなもの本当にない。
(ホントの事実はウケないものだ。事実をありのまま言う暴挙を、あえてしているので、少ない客がドンびきしていくのがなんとなく分かるが、言うしかない)
酔生夢死の人生でいいと思ったら、その人間はもう、この世の支配者に降参している。白旗あげた人生だ。
それより、事実を潔く事実と認めれば、そこから思いもかけぬ新たな道が開けるかもしれないのに、それは怖くてできない。
一切誤魔化さず、堂々ときっぱり認めてしまえば、べつに怖いことも恐ろしいこともなく、カラッと明るい気持ちになるかもしれないのに。
(過去記事再録)