哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

世の中を暗くする獣的人間

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 昔、職場で「何を言ったかじゃなく、誰が言ったかで判断する人間は最低だ!」と怒ったことがある。
言う前から周りの反応は鈍重だろうと予想はついたが、それでも言ってしまうときもあった。







 武田邦彦先生のエッセイ「何を言った」より「誰が言った」という社会は、正にわが意を得たりの内容。
MP3音源もあるのでぜひ聴いてください。一人二人でも聴いて理解すれば(武田先生が言われるように)その分だけ世の中にいやらしさが減って、明るさが増えるとおもうので。



[181101追記]
 この問題を、ひろゆきさんがちょっと別の角度から言っている(冒頭10分ほどの話)
「物事を、偉い人がどう言ってるかを集めて理解する」これを素でやってる人達。多い多い。やんなるほど多い。
「この理解の仕方違うでしょ」いくら注意したってわかりゃしない。
もうすっかり突き放し、ひろゆきさんのように面白がるしかないのか。


【ひろゆき】BNF(資産200億)が株で成功できた理由「彼は神経症なんですよ」
[追記終]

 しかし、これに関して他人を怒る資格がおれにないことに、
以前NHKのドラマ「TAROの塔」を観た時、気づいた。

最近(再放送だったとおもうが)NHK Eテレ先人たちの底力 知恵泉 岡本太郎 万博への道」を観て、あらためてそのことを思い返した。



 もう何十年も前になるが、岡本太郎が万博プロデューサーを引き受けたニュースを聞いて、当時おれは周りの大人たちにわけもなく同調して、岡本太郎に軽蔑感をもった。
この記憶は今でも昨日のことのようにはっきりしていて、思い出すたびに苦い味がするので困る。

おれは

自分で調べ自分で考え自分で判断する代わりに、まわりの空気をサッと読み、はしこく適応して横着に済ます獣的人間

の一人だったってことだ。

「何を言ったかじゃなく、誰が言ったかで判断する」というのもそういう獣的不精心で、おれも同じことをしていた。

しかも、いまだにこの種の「気づきのない」獣時間から縁が切れないでいる。

記憶が苦いのはそのせいだ。




人間なら、獣のようにただ適応するのではなく、人間として応答するべきだ。



 平均人は、自分の置かれた状況にむやみに適応しようとする。
適応さえうまくいくと、それで我が事成れりと思いこむ。
自分がない。
レベルの低い、悪い意味で無私なのだ。
まず自分を持て。
自分を持って状況に応答するべきだ。
人間が生きるとはそういうことなのだから。
悪い意味で自分がない人間は、適応してから応答しようとする。
そんな仕組まれた予定調和の応答は偽物であり、したがって適応も本物ではないのだ。
自分のちゃんとある人間は応答して、結果として適応することがある。
適応すべきでない状況には、もちろん適応を拒否する。
応答は本物であり、したがって適応も(たとえ不適応に見えても)本物である。

仏教に、こういうストーリーがある。
片目のつぶれたサルばかりの集団に、1匹だけ両目の開いたサルがいた。
このサルは仲間はずれにされた。
みんなと同じじゃないという理由で。
それに耐えられず、とうとう自分で片目をつぶしてしまった。

集団の一部になることで、自分を見出したつもりになることの空しさ。

たいていの人間は、自分が所属すると信じているグループ(会社、国家等)の自由を確保維持することに熱心になる。
自分はグループの構成員として服従する。
(この狡猾な処世術を「滅私奉公」などと自讃して、あたかも「無我」と関係あるかのようによそおうが、実態は「グループぼけ」[澤木興道老師]にすぎない)
その見返りに、グループのもっている自由を分割享受できると満足を覚えるのだ。

しかし、ほんとうに必要なものは個的自由だ。
なぜなら、人間は誰でも、死ぬときは必ず独りで死ぬほかないからだ。
多くの人は、この一点の理解が十分でないために、ばかげきった一生を終える。










人類は何万年も生きてきたが、いまだに死の問題を解決できないままだ。
もし科学技術で不老不死が可能になったとして、さてそれが死の問題の解決になるのか。
問題はいっそう恐ろしい様相を呈してくるにちがいない。

自然状態の人間には、ただやみくもに生き続けようとする以外に生きる目的がない。
これは、満足されることが決してない、むなしい目的だ。
人間が動物のレベルにとどまっているうちは、人生に救いはない。

人生は無意味だという事実を、明晰に知っている人はめったにいない。



(過去記事統合増補編集再録)