瞑想っていうのは実験なんですね。
だから「実験しているんだ」という気持ちで瞑想するとうまく進みます。
瞑想実践する人は99%失敗するのは、いくら言っても、これはもう、心の中に入らないんですね、こういう(瞑想は実験だという)単純なポイントはね。
いたって単純ですが、難しくして分からないようにしてしゃべると一生懸命聞いちゃいますけどね。
(ブッダのことば スッタニパータ738,739中村元訳)より引用させて頂きます。
楽であろうと、苦であろうと、非苦非楽であろうとも、内的にも外的にも、およそ感受されたものはすべて、
苦しみであると知って、滅び去るものである虚妄の事物に触れるたびごとに、衰滅を認め、このようにしてそれらに対する執着を離れる。
(以上)
人々は本能に手もなくひねられる。
とりわけ性欲には百戦百敗してる。
すぐ「子孫存続」を持ち出して取り繕うが、
あんた子孫存続のためにセックスしたか?
質問
「なぜセックスするのか?」
の答えは
「DNAプログラムの自動反応だから」
です。
人間は、その反応を自分の意志でしてると思いたいので、「子孫存続」「尊い生命」などという屁理屈を後付したと思います。
なぜなら、人間は生きるために意味と目的が必要だと感じるからです。
眼の物語。
耳の物語。
……
思考の物語。
五感が作り出す幻覚の慢性中毒者たち。
この中毒を「物語を信じる力」などと美化する。
エゴの本能的捏造(真っ赤な嘘)を
自覚的に崇拝し、ためらわず実行しろ
と励まし合ってる。
無明の酒をもっと飲め飲めと
互いに勧めてる姿だ。
自己をととのえよ←これだけが本当に唯一の答えだとおもう。
目的地(無我)に着くまでは、
目的地に行くという自己意欲が必要だが、
目的地に着けば、
その自己意欲は役目を終え、消えてる。
あたりまえの道理であり、
分からない方がどうかしてる。
一切皆苦。快は錯覚。
この事実をまさに事実だと知ることが重要。
さもないと、感覚を厭い離れようとは思えない。
厭い離れる気持ちが切実でなければ、瞑想は常に中途半端になり成就しない。
接触感覚は止められないが、接触感覚だけで止めることは可能。
接触が思量分別等の汚物を呼び込むのを止める。
瞬間に接触し瞬間に消滅する、諸感覚の衰滅のありのままを観察し、それらに対する執着を離れる。
サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。
ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること。
というわけで、理論と実践の甚だしいギャップに苦戦しつつ、ひとりでヴィパッサナー瞑想を検証中。
人生は実験だ!
(My Favorite Songs)