哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

何を食べたとしても、排泄物になるばかり。

37 - パトゥル・リンポチェの 仏教を理解するシリーズ『覚者の心の宝』 - YouTube

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動画右に表示されてる、ライブ配信時のKurumi Kanekoさんのチャットを引用させていただきます。強調処理は私です。

Kurumi Kaneko
​仮の訳です68偈(日本語『チベット仏教の真髄』P332、英語Wisdom Treasury版P31)何を食べたとしても、排泄物になるばかり。いかに食欲が満たされないかを見よ。これからは禅定の栄養を摂る方がいい。飲食を断った状態において、六字真言を唱えよ。

Kurumi Kaneko
​仮の訳です69偈(日本語『チベット仏教の真髄』P333、英語Wisdom Treasury版P32)どのような思考も迷妄を生むばかり。いかに目的が果たされないかを見よ。これからは将来の計画を少なくする方がいい。心を定めた状態において、六字真言を唱えよ。

Kurumi Kaneko
​仮の訳です70偈(日本語『チベット仏教の真髄』P334〜5、英語Wisdom Treasury版P32)いかなる所有物も執着を生むばかり。いかに集めたものすべてを後にして去るかを見よ。これからは利己的な執着を断つ方がいい。物を得ては溜め込むことを絶った状態で、六字真言を唱えよ。

Kurumi Kaneko
​仮の訳です71偈(日本語『チベット仏教の真髄』P336、英語Wisdom Treasury版P32)どれだけ沢山眠っても、それは心の麻痺状態に他ならない。いかに人生が怠惰の中に尽きていくかを見よ。これからは一心不乱に努力した方がいい。すべての散乱を日夜断った状態で、六字真言を唱えよ。

 

[引用終]

 

 

 しかし…現状確認しておこう。

 

 人類がみずからの長い歴史の中で、現象を現実的に観察し論理的に思考し理性的に対応するのが正しいと知ったのは、ほんのついさっきからのことで、それまではずっと何万年も、それとは正反対の怪奇な生き方をしてきた。


何万年もかけて骨にまで染み付いた感情的な神秘癖からきれいに抜け切る人は、今でもめったにいない。
 

つまり「現実的に観察し論理的に思考し理性的に対応する」が単なる流行のパフォーマンス以上のものになったことは、かって一度もない。


大多数の人々は逆に、何万年もの間苛めぬかれた古い病癖に再び身をまかせる時、

あたかも故郷に帰ったような安息を感じ、

これこそ「ほんとの自分」だと他愛もなく錯覚する。
 

今も大半の人たちは、そういうグロテスクな生き方をしている。

 

みんなで神様についていく、で、とりあえず感動しちゃおうって。
古い病癖に身をまかせ安息…グロテスクの極み!

 

 

 われはすべてに打ち勝ち、すべてを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。
すべてを捨てて、愛欲は()きたので、こころは解脱している。
みずからさとったのであって、誰を[師と]呼ぼうか。

ブッダの真理のことば ダンマパダ353中村 元訳)


 釈尊にできたことが、
自分にできるか…

釈尊が同じ人間で、かつ釈尊が嘘つきでないなら、答えは当然ノーではない。

実際にやってみてやはりダメだったとなるとしても、可能性はあるだろう。

次に、これが最重要ポイントだが、

人間にやるやらないの選択の余地があるか

という問題だ。
おれはまったくないとおもう。

みんなあるに決まってるというが、

それは迷路をさまよう自由

にすぎない。

出口は一つしかないのだ。

人間には初めから、やるという一本道しか与えられていない。(理由を誰にも分かるように言葉だけで伝え難いが)これは、おれにとって明々白々な事実だ。
肝腎なことなので、みんなに分かってもらおうと努力はするけど、詰まるところ他の人が分からなくても、ほんとは気にならない。

この問題に関しては、世間的な頭の良悪は一切関係ないからね。おのおの首の上に例外なく専用の脳みそが載ってる。あんたとおれ、条件は同じだよとおもってる。
ただ、いらんお世話かもしれんが、そのため説明をまだ本気でやれていないというおもいもある。





 たとえ樹を切っても、もしも頑強な根を断たなければ、樹が再び成長するように、妄執(渇愛)の根源となる潜勢力をほろぼさないならば、この苦しみはくりかえし現われ出る。

(同338)

これに関して、釈尊は次のようにも言ってる。
 いかに欲の禍が甚しいものであることを知っても、欲以外の幸福に達しない間は、どうしてもこの欲につきまとわれる。これは余の経験であるが、余も亦、さとりを得るまでは、常に欲に追われていた。

(現代語仏教聖典 第14章1,2)

 釈尊のことばは、釈尊自身が深く体験し完璧に知り抜いた末に発せられてる。


 鉄や木材や麻紐でつくられた(かせ)を、思慮ある人々は堅固な(いましめ)とは呼ばない。
宝石や耳環・腕輪をやたらに欲しがること、妻や子にひかれること、──それが堅固な(いましめ)である、と思慮ある人々は呼ぶ。
それは低く垂れ、(ゆる)く見えるけれども、脱れ難い。
かれらはこれをさえも断ち切って、顧みること無く、欲楽をすてて、遍歴修行する。

ブッダの真理のことば ダンマパダ345,346中村 元訳)



 あれこれ考えて心が乱れ、愛欲がはげしくうずくのに、愛欲を淨らかだと見なす人には、愛執がますます増大する。
この人は実に束縛の(きずな)を堅固たらしめる。

(同349)


 あれこれの考えをしずめるのを楽しみ、つねに心にかけて、(身体などを)不浄(きよからぬもの)であると観じて修する人は、実に悪魔の束縛の(きずな)をとりのぞき、断ち切るであろう。
(同350)

 

 

 当世「驚異の人体」とか賛美して、身体は不浄でないとみなす世俗的願望はピークに達してる。
事実に反する。
自分を損なう質の悪い妄想でもある。
何の利益にもならない。

 

釈尊
世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。
と教えてる。
(スッタニパータ4章「八つの詩句」同5章「彼岸に至る道」)

これは、ヴィパッサナー実践の勧めだとおもう。

 

サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。

ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること