ブッダのことばスッタニパータ2 中村 元訳(岩波文庫)
全世界のうちで内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭い離れ、身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人、──かれは(自己を制した人)である。
(ブッダのことばスッタニパータ516 中村 元訳より引用終)
最初の一句「内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し」…これだけでも実現は非常に困難なことだ。
ましてさらに「この世とかの世とを厭い離れ」「身を修めて、死ぬ時の到来を願っている」…道は遥か遥か遠い。
これを人と生まれた不幸とおもうことも幸福とおもうこともできる。
しかし、どうおもおうと実はまったく関係ない。
いったん生まれてしまったら、一本道を進むしかないからだ。
立ち止まって足踏みを続けることも、後ろ向きに走り去ることも、やるのは自由だが…結局は前進するしかない。逃げ道はまったくない。
だから、これは人の幸福だとおれはおもっている。おもいが関係ないならそうおもったほうが楽だし。
おれは自分の本心を深く調べてみると、諸々の感官を修養し身を修めたいとやや本気で欲しているが、この世を厭い離れたいとは欲せない、ましてこれっぽっちも知らないかの世をやだ。死ぬ時の到来を願う気持ちもまったく持っていない。
一方、諸々の感官を修養し身を修める道は遅々として進めない。
てことは、この釈尊の教えに関しておれは全部ダメってことだ、情けない。
なぜおれは「遅々として進めない」のか。
釈尊に
「色は無常なり。
無常なるは即ち苦なり。
苦なるは即ち我に非ず…」で始まる獅子吼説法があって「是の如く観ずれば色を厭い受・想・行・識を厭う」←厭うとはっきり書いてある。この偈にも「この世とかの世とを厭い離れ」とある。
この「厭う」は「智慧によって理解して離れる」という意味以上のもっと必死のものを示している、とおれはおもう。
「智慧によって理解して理性的に離れる」という意味だけなら「厭う」とは言わない。
これはおれの言語感覚の問題なのかな。
釈尊以上に誠実な人はいない。その釈尊が「厭う」と言っている。かならず深い意味があるが、それが何かわからない。
怒り0パーセントで何かを厭うなんて、少なくともおれには無理だと感じる。
一方で、怒りは猛毒で罪で厳に避けるべきものという教えがある。
どうしたら怒らず厭えるかが、おれには分からないので困っている。
ここを突破できないので、おれは「遅々として進めない」のだとおもう。
でも、どんだけダメでも情けなくても、あるいはその反対でも、前進するしかないから、それは幸せなことだとおもうのだ。
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(過去記事統合編集再録)