哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

名作「この国の空」

以前紹介した名作「この国の空」が今

GYAO!で無料視聴できます。8月24日(水)まで

この国の空

GYAO!タイトル情報より引用させていただきます。

私は愛も知らずに、空襲で死ぬのでしょうか――?
1945年、終戦間近の東京。19歳の里子(二階堂ふみ)は母親(工藤夕貴)と杉並区の住宅地に暮らしている。度重なる空襲に怯え、雨が降ると雨水が流れ込んでくる防空壕、日に日に物価は高くなり、まともな食べ物も口には出来ないが、健気に生活している。妻子を疎開させた銀行支店長の市毛(長谷川博己)が隣に住んでいる。里子の周りでは日に日に戦況が悪化していく。田舎へ疎開していく者、東京に残ろうとする者……。戦争が終わると囁かれはするものの、すでに婚期を迎えた里子には、この状況下では結婚などは望めそうもない。自分は男性と結ばれることなく、死んでいくのだろうか。その不安を抱えながら、市毛の身の回りの世話をすることがだんだんと喜びとなり、そしていつしか里子の中の「女」が目覚めていくのだが──。

二階堂ふみ、長谷川博己出演『この国の空』予告編 - YouTube

 

これは反戦映画にはなってない。しかしおもしろかった。

 
たとえば今のテレビ番組を見ればすぐわかるが、
善悪美醜も喜怒哀楽もすべてが
ふやけたイミテーションだ。
それに対し、苛烈な戦時下では、イミテーションの存在余地は無くなり、善悪美醜も喜怒哀楽もすべてがいや応なく本性剥き出しになる。
その非日常のヴィジョンは平時の人間を強く惹きつける。
製作者の意図はどうあれ、そういうことを描いた作品になってるとおもう。
その意味で反戦映画ではない。

 

坂口安吾「堕落論」に、こうある。
…昭和二十年の四月四日という日、私は始めて四周に二時間にわたる爆撃を経験したのだが、頭上の照明弾で昼のように明るくなった、そのとき丁度上京していた次兄が防空壕の中から焼夷弾かと訊いた、いや照明弾が落ちてくるのだと答えようとした私は一応腹に力を入れた上でないと声が全然でないという状態を知った。…爆撃直後の罹災者達の行進は虚脱や放心と種類の違った驚くべき充満と重量をもつ無心であり、素直な運命の子供であった。…
… あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。…
…偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない

 (引用終)

 

 

敗戦の表情はただの堕落にすぎない…つまり平時の堕落より戦時のリアルを良しとするのが安吾の結論かというと、そうではない。
 
真反対だ。

安吾はすぐにこう続ける。
 だが、堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫のような虚しい幻影にすぎない
(引用終)
 
 
おれは、この安吾の結論に激しく同感する。
 
安吾は名著「堕落論」を次の言葉で締め括ってる。

 …堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

(引用終) 
 
 
 
 
ちなみに
この映画は、
 
反戦映画でもないし、
恋愛映画でもない
 
という意味のことを、主演の二階堂ふみは言ってる。

 

反戦映画でもないし、恋愛映画でもない

 

が、だからといって決して中途半端ではない。

 

くりかえしになるが、この映画は、

 

非日常のヴィジョンは人間を強く惹き付けるが、その美しさは、泡沫のような虚しい幻影である

 

ことを、見事に描ききった名作だとおもう。

おれは大変おもしろく観た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (My Favorite Songs)  

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(過去記事増補編集再録)