哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

エイプリルフール 戯れにでも嘘をついてはならない。


 エイプリルフールは罪のない嘘をついて笑い合おうなんて、無知の風習、愚の骨頂だ。




嘘は、どんな理由があろうと決してついてはならない。
たとえ戯れにでも嘘をついてはならない。


というのがブッダの教えだとおもう。
面白がって悪意のない嘘をついたラーフラを呼びつけておこなったブッダの説法は簡明で非常に怖いものだった。


ラーフラを叱ったブッダのことばを載せておきます。

『ヤシ殻の底についている水』

ターン・プッタタートのHPより

引用させていただきます。

パーリ仏説 中部チュララーフローワーダ経 13巻123頁126項

ラージャカルハに近い竹林精舎で、自ら足を洗われている時に



ラーフラ。この器にわずかに残っている水が見えますか」

「見えます。ブッダ様」

ラーフラ。嘘と知りながら嘘を言って恥じない出家の、出家者である意味は、この器の底に残っている水のように少ししかありませんよ」

 ブッダは(わずかしかない水を捨てる仕草で)その水を注いで捨てて言われました。

ラーフラ。今捨てた水が見えたでしょう」

「見えました、ブッダ様」

ラーフラ。嘘だと知りながら嘘を言うことを恥じない出家の、サマナである意味は、この器についている水のように少ししか残っていません」

 ブッダはその器を伏せて言われました。

ラーフラ。伏せた器が見えるでしょう」

「見えます。ブッダ様」

ラーフラ。嘘と知りながらわざと嘘を言って恥じない出家の、サマナである意味は、伏せた器についている水くらいしかありません」

 ブッダはその器を上向きして、言われました。

ラーフラ。水のない食器が見えるでしょう」

「見えます、ブッダ様」

ラーフラ。嘘だと知りながらわざと嘘を言って恥じない出家は、器に水がないように、サマナである意味はありません」

ラーフラ。嘘と知りながらわざと嘘を言って恥じない、下賤な行動はあってはなりません。あり得ません。だからこのことについて、『私たちは誰も、偽りを言わない。たとえ冗談でも』と注意しなければなりませんよ、ラーフラ。あなたたちはこのように注意しなさい。ラーフラ。鏡は何のためにありますか」

「鏡は映して見るためにあります。ブッダ様」

ラーフラ、すべてのカルマも、鏡のように映して良く熟慮して見て、それから体と言葉と心の行動に移さなければなりません」

(引用終)

 

嘘については、カントが非常に善いことを言っている。
哲学者のカントは「どんなときでも絶対嘘をついてはいけない」と言った。

それに、同時代の思想家バンジャマン・コンスタンが文句をつけた。
たとえば、友達が殺し屋に追われて家に逃げこんできたとする。探しにきた殺し屋に「自分の家にいない」と嘘をつくのは正しいと。人の命を危機にさらすような相手(殺し屋)に真実を知らせる必要はないと。

カントが反論し「本当の事を言っても、それから殺し屋は探し始めるのだから、まだ逃がすだけの時間的余裕がある」などと説得力の乏しいことをいって(まで)相手が誰であろうと、嘘は道徳的に正しくないので、絶対言ってはいけないと、主張したと。

さすがはカントだとおもった。

カントは非常識なことを強弁しているというのが、1000人中999人の反応だろう。

しかし、正しいのはカントのほうで、バンジャマン・コンスタンと常識のほうが浅はかなのだとおもう。


※ちなみに、B・ラッセルがコンスタンとまったく同じことを主張しているのをずいぶん昔に読んだ覚えがある。賢者ラッセルさえこの始末だ。「嘘も方便」という迷妄は深い。


 エイプリルフールの起源に諸説あるが、みないいかげんなものばかりだとおもう。


 

 

 

 

 

 

 

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(過去記事統合増補編集再録)