より引用させていただきます。
本当のタンマは、言葉や文字で伝えることができなくても、心にタンマが現れるようにする実践法は、言葉や文字で表すことができます。しかしその人たちの心が苦を知らなければ、幾ら言葉や文字で伝えても、彼らは受け取ることができません。
三蔵やアビダンマをたくさん勉強する必要はありません。それらの経典は、いろんな枝葉である話をまとめたものだからです。何千もあるすべての話の中で、私たちが探求して知らなければならないことは一つだけです。つまり「本当の滅苦」の話だけです。
[引用終]強調処理はわたしです。三蔵やアビダンマをたくさん勉強する必要はありません。それらの経典は、いろんな枝葉である話をまとめたものだからです。何千もあるすべての話の中で、私たちが探求して知らなければならないことは一つだけです。つまり「本当の滅苦」の話だけです。
大乗仏教は当初から苦聖諦カットの仏教を志向していたとおもう。途中少々の揺り戻しは起きたが、今でも苦聖諦は脇に退けられ積極的に説かれることはない。理由は単純で、
お客さんに、ウケないからだ。
稀な例外を除いて在家信者は、一切皆苦を理解したがらない。
ごまかしなく説けば、怒って聞かないだろう。
在家信者は常に「不滅の我」の狂信者であり、
苦聖諦は無常の実感だが、「不滅の我」は無常の否定だからだ。
すべての存在は変化するが、「我」は存在しない妄想だから変化しない。
つまり、
「我」が変化しないことは、
「我」が妄想で存在しない、一番ハッキリとした証拠だ。
苦聖諦を深切平明に説くスマナサーラ長老の名法話をお聴きください。
苦聖諦について、おれの思いを、もうちょっと書きます。
一切が苦とあなたの心が知らないうちは、仏教の門は開かず、修行しても形だけ、滅苦もない。
苦聖諦の理解がなければ修行は不可能となり、修行なき仏教は壮麗なる文学と化す。
苦聖諦が仏教の入口です。
では「苦諦」はたんなる入口にすぎず、「集諦」「滅諦」「道諦」が得られる保証はないのでしょうか。
そうではありません。「苦諦」さえ得れば他の三つも必ず得ます。
ブッダが「苦が見える人は、当然苦が生じる原因が見え、当然苦の消滅が見え、当然苦の消滅に至る道が見える」と明言しているからです。
(ブッダが一番に苦諦を説いたのには深い意味がある。次に集諦、その次に滅諦、最後に道諦という「順序を正しく記憶しなさい」と、ブッダはわざわざ注意しているからです)
どんなよい法もすべて四聖諦のなかにふくまれてしまう。(サーリプッタの象の足跡のたとえ)
だから苦聖諦を得れば、すべてのよい法を得るとおもいます。
(My Favorite Songs)
ザ・タイムズ。
「なぎさの誓い」
カヴァー多数あり。
So Much in Love / なぎさの誓い [日本語訳付き] アート・ガーファンクル
All-4-One
(過去記事統合増補編集再録)