哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

受動意識仮説 「自己をととのえよ」の意味

 以前、コミュニケーションスキルの講習に、たまたま参加したことがある。

 

講師が冒頭で紹介した話が、
人が初対面時、相手を何で判断するか。
その割合は、相手の話す内容たった7%。残りの93%は目と耳に入ってくる刺激(相手の表情、服装、声のトーンや口調)に対する動物的な自動反応のようなものだという
科学的知見であった。

 

多くの人が、すでにテレビ等で何度か聞いた、そう珍しくもない話題のはずだ。
 
しかし、これが恐ろしい事実だと真に分かる人は、めったにいないのではないか。

 

人間は物事を自分で判断していると信じているが、それは幻想だ。
判断は五感の刺激と無意識反応でほとんど自動的に決定され、意識はその事後承諾と自己弁護しかしていない。
これは、そういう恐るべき話なのだ。

 

いくらコミュニケーションスキルの講習でも
 
だから、人に会うときは身だしなみをちゃんとして笑顔で愛想よくしましょうね(講師談)
 
で解決するような、ちっぽけな問題じゃない。

 

 
 
 
 
 
 意識は幻想か?―「私」の謎を解く受動意識仮説。下の動画を見てください。
 
自然レベルの「意識」をたとえると
 
自分をワンマン社長だと勘違いしてる間抜けな社史編纂室長
 
と。見事なたとえ!
 
 


意識は幻想か?―「私」の謎を解く受動意識仮説





 
 
ブッダのことば

実に自己は自分の主である。
自己は自分のよるべである。
ゆえに自己をととのえよ。
(ダンマパダ380)

 

 
 
 サティとヴィパッサナーの努力によって、五感の刺激と自動反応の奴隷に過ぎない自分意識にはっきりと気づき、愚かな自己弁護の幻想から覚め、よくととのえられた自己で自分意識の主人に昇格する道を、ブッダは説いた。


自己をととのえよ←これだけが本当に唯一の答えだとおもう。

 
 
 
 
 
 
心の天動説は幼稚すぎる。
 
ダッサい。
 
もういいかげん終わりにしよう。
 
各自がコペルニクス的転回をするべき時だ。
 
それがほんとうにできたら、
新しい世界が開ける。
 
無我まであと一歩!

(…できずにグループボケに落ちるくらいなら、まだ我利我利の利己主義者でいるほうがましだけど)
 
 
 
もう一言だけ
学者は滅苦を目的に据えないから、理論が迷走する。
非我だと梵を認めることになり、
自我幻想は保持されたままだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (My Favorite Songs) 
「悲しきカンガルー」

 


Rolf Harris - Tie Me Kangaroo Down, Sport.mpg

 
 
(過去記事統合増補編集再録)