哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

フィクションに屈せず、ありのままに観る

 

主観や推測を排し、ありのままに観る #shorts #スマナサーラ長老 #初期仏教 #jtba - YouTube

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[感想]

感情的、動物本能的には

「一切の形成されたものは苦である」の事実を嫌悪し無視するに決まってる。多くの人はまさにそうしてる。

しかし、絶望的事実から目を背けて逃げ回ってばかりなら確実に何の解決もない。そういう人々は自分から救いを拒否してるからだ。

事実の正しい認識だけが、真の救いに導いてくれる。救いのない限界状況は、それを受け入れる覚悟のある者には、この上なく正しい報せになりうるからだ。ブッダの説く苦聖諦とはその意味だ。

動物は苦を楽と錯感覚して、夢中で苦を欲しがる。
賢いつもりの人間もその点さしたる違いはない。


苦に夢中の人が苦から解脱できるわけがない

 

ブッダの説法にある。
全くもってごもっとも。
だから世界中いつもどこもおぞましいことになってる。

自分でじゅうぶん調べて、実験して、確認して
「一切行苦」が眼前の事実だと納得して受け入れなければ、仏法理解はのっけにつまずく。

「苦聖諦」が仏教の入口だ。一切が苦とあなたの心が知らないうちは、仏教の門は開かず、修行しても形だけ、滅苦もない。

「苦諦」はたんなる入口にすぎず、「集諦」「滅諦」「道諦」が得られる保証はないのであろうか。
幸いなことに、そうではない。「苦諦」さえ得れば他の三つも得ることができるのだ。
ブッダは「苦が見える人は、当然苦が生じる原因が見え、当然苦の消滅が見え、当然苦の消滅に至る道が見える」と明言している。
ブッダが一番に苦諦を説いたのにも深い意味がある。次に集諦、その次に滅諦、最後に道諦という「順序を正しく記憶しなさい」と、ブッダはわざわざ注意してるからだ)

 

 

サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。

ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること