哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

法句経 六偈の解釈について

(スマナサーラ長老音声『ダンマパダ(法句経)講義 6偈~みんな争いの空しさを「知ってるつもり?」』)より引用させていただきます。

人々は(争いによって)、自己破壊してしまうことを知らない。
それを知っているならば、あらゆる争いは消えてしまう。

(引用終)




 おれはこのスマナサーラ長老によるダンマパダ六偈講義の存在を知らなかったが、これは聴けて非常にありがたかった。

長老はこの偈ができた原因になった事件の顛末を、パーリー語テキストの伝統に従って詳しく説明してくれる。

 

確かに中村元訳の「われわれはここにあって死ぬはずのものであると覚悟しよう」では、この事件とのつながりがチグハグになるとおもう。

 

「人々は(争いによって)、自滅してしまう。」と訳さないと、背景との整合性がとれない。

パーリー語原典は「死神の思う存分になる」といった意味だとのこと。

微妙な問題だな~という印象。

おれは、そもそも先に自分の体験・実感があって、その後で中村元訳ダンマパダ六偈を知って、これは自分の体験の権威付けに都合がいいとおもった。
だから仮に、この詩が誤訳でおれの個人的確信の保障にはならなくても、べつにかまわない。

 

受講者から

 

『死ぬことを知れば、争いは静まる』ではなんのことかわからないが『争えば自滅すると知れば、争いは静まる』ならわかりやすい

 

という意味の発言があって、それは常識に合っているとおもうが、おれは別の考えがある。

 

『死ぬことを知れば、争いは静まる』

 

 

『争えば自滅すると知れば、争いは静まる』

 

と言いかえても、実はちっともわかりやすくならない。ちょっとわかった気分になるだけで、実際には、なにも変わらない。

 

つまり「争えば自滅するんだよ」と言っても、大多数の人々は「知ってるよそんなこと」と答えるだけで、あいかわらず争いは静まらないからだ。

 

貪瞋痴は言葉だけで知っても、なんにも変わらないのだ。ここがポイントだ。

 

まさに講義の表題にあるように「知ってるつもり?」

 

 

 

だから釈尊

 

このことは、

知られていない

 

と言っているのだ。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   (My Favorite Songs) 

弘田三枝子さんが死んでしまった。享年73歳。

 


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ミコのカロリーBOOK、おれも買ったからね。

当時どうかしてたな。

 

 

 


mieko hirota the end of summer

 


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(過去記事統合増補編集再録)