テレビを見てたら、沈思黙考の反対は無念無想だと言っている。
一方で辞書によると沈思黙考の類語に瞑想が入っている。
坐禅は無念無想だが、一方で坐禅は瞑想だとされている。
すると沈思黙考≒瞑想≒坐禅≒無念無想だから、沈思黙考≒無念無想になる。
反対がほとんど等しいとはこれいかに。
言葉の混乱は一般的理解がない証拠だ。
釈尊は
一方で辞書によると沈思黙考の類語に瞑想が入っている。
坐禅は無念無想だが、一方で坐禅は瞑想だとされている。
すると沈思黙考≒瞑想≒坐禅≒無念無想だから、沈思黙考≒無念無想になる。
反対がほとんど等しいとはこれいかに。
言葉の混乱は一般的理解がない証拠だ。
釈尊は
思考(識)を厭え
と明確に説いているから、坐禅は無念無想で、沈思黙考では真逆だから
当然NGなんだが、このことはなかなか理解されない。
坐禅中に沈思黙考して、坐禅したつもりになってる人がいても、
止めさせることは簡単ではない。
無理に理解させようと圧力をかけると最悪に曲解する。
脳をフリーズさせさせてしまうのだ。
(単純に「思考停止」して…権力サイドのいいなりになる)
誰も坐禅で云う無念無想に直で行けない。
ヴィパッサナーしかない。
ヴィパッサナーが唯一の道だ。
(直で行けるのは
自爆的な「思考停止」
で、それは最悪だ)
当然NGなんだが、このことはなかなか理解されない。
坐禅中に沈思黙考して、坐禅したつもりになってる人がいても、
止めさせることは簡単ではない。
無理に理解させようと圧力をかけると最悪に曲解する。
脳をフリーズさせさせてしまうのだ。
(単純に「思考停止」して…権力サイドのいいなりになる)
誰も坐禅で云う無念無想に直で行けない。
ヴィパッサナーしかない。
ヴィパッサナーが唯一の道だ。
(直で行けるのは
自爆的な「思考停止」
で、それは最悪だ)
(過去記事統合再録)