哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

あなたの悩み疲れた心の【感情と思考】は腐っている

 

 

以前、名古屋(笠寺・日本ガイシフォーラム)の「初期仏教デー ヴィパッサナー冥想と法話の会」に参加した。

その時のメモと感想。

 スマナサーラ長老の法話、質疑応答、初心者瞑想指導が13:30 から19:00までみっちり(15分の休憩1回を挟むのみ)おこなわれた。

非常に内容が濃かった。

瞑想に関して、いくつか誤解していたことにも気づかされた。
たとえば、背骨をまっすぐ伸ばすのは


「筋肉は使わない。骨で伸ばす」

(教えられたとおりやろうとしたが、難しい。練習必要)

ヴィパッサナー瞑想中、痛みやしびれや痒みにサティを入れてもなかなか消えないので困っていたが、


「(実況中継さえしていれば)消えても消えなくてもどうでもよい」

(痛みやしびれ、痒みくらいで死にやしないから心配するなってことか)

妄想は起きたら必ずカットする。


「なかったことにしてはいけません」

(妄想があまりにも多いので、一切相手にならずシカトする作戦に切り替えていたのだが、それじゃあだめなんだ)

 

 

 

 

 「ヴィパッサナー冥想と法話の会」翌年2回目のメモと感想。


スマナサーラ師の法話(ほんのさわりだけ)


瞑想は、思考を止めるためにやる。

思考を止めれば悟りに達する。

思考は汚物である。

ヴィパッサナー瞑想は、智慧とともに一切の能力を開発するが、目的は世界を捨てることである。

「わたしはこうなりたい、ああなりたい」とあらかじめ設定して瞑想に入ってはならない。

あなたたちの悩み疲れ汚れた心で考える理想は腐っている。

いったん修行を始めたら、それから人生になにも問題がない。その瞬間から仏法僧に守られているからだ。

 (以上。赤色強調処理は私です)

 

 

 

 

 

おれはこのごろ歩くヴィパッサナー実践をはしょって、すぐ座るヴィパッサナーに入っていた。これはやはり賢明なやりかたではないようだ。まず必ず1時間以上歩くヴィパッサナーをやって、それから座るヴィパッサナーに入る手順は、体験に裏打ちされた重要な教えだとあらためておもった。

j-theravada.net

 

 

 

 

 

 

 

(My Favorite Songs)  

カルメン・マキ。
ザ・ハプニングス・フォー
「あなたが欲しい」

 

「あなたが欲しい」といえばハプニングス・フォーのこの名曲も忘れるわけにはいかない。
しかしカルメン・マキのは女から男へ「あなたが欲しい」といって、ハプニングス・フォーのは男から女へ「あなたが欲しい」と。これで今も昔もあっちでもこっちでもガンガンくっつくことになる。


あなたが欲しい/ザ・ハプニングス・フォー

 

 

(過去記事統合増補編集再録)