哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

ブッダ直説の瞑想を嫌う末代

『栂尾明恵上人遺訓』より

 世も末になると、釈尊直説の瞑想を嫌い、仏典を次々読み飛ばし知識自慢するネタだけ増やして、肝腎の釈尊が勧めた無常を体得する実践には見向きもしない。人が注目する派手な妄説を好み、地道な努力の継続を面倒くさがる…

[私的超訳 引用終]

 
 
 
[原文]
末代には、仏法にも如説修行は次になりて、よき定めたる一部の文をよみおわりては、またこと文をのみ見たがりて、ただよみつむばかりをこととして、物の用にたて、如説修行の心なし。戯論妄想のかたには心ひきて、おこない物ぐさきなり…
(以上)





悲しいかな、まさに自分のことだ。
瞑想は、思い出しては試みるが、ちっとも続かず、そのいいわけに仏典など読み、ネット説法など見聞きしている。
「いいわけ」と書いたのは、仏教はあるレベルまで学習したら、以後は外から情報を集める作業をいくらやっても埒は明かないからだ。やはり眼をおもいきって自分の内側に向けかえる実践修業に進まないとダメだ。

(とはいえ、おれは日々の時間の大半ををさらにくだらないことでつぶしているのだが)

ネットの優れた諸説法は異口同音に、如説修行せよと説いている。
如説修行とは無常を体得するための瞑想の実践だ。おれは釈尊に帰依随順するので、如説は坐禅とヴィパッサナー実践に極まる。
これがちっともできてないから困ってるわけだ。
ヴィパッサナーは「今」を観察して確認する単純極まる作業の持続。 十分強いやる気さえあれば、指導者がいなくても横道に逸れることはない。必要なのは「烈々としたやる気」だと痛感している。やる気が弱いと、本能の勢力が強くなり、ヴィパッサナー瞑想を妨害するために意識下で様々な障害を作るほうにエネルギーが徒消されてしまい、疲れて挫折する。

不滅の魂という共同幻想にすがり、死んでもなんとなくまだあとがある気分でいると、この種の強いやる気を起こすことは不可能だ。

おれは心にどこか矛盾した思いがあるのでダメなんだ。

仏教徒は無常(言葉ではない)が体得できなければ存在価値はない。
釈尊の教えは世界最高限だが、無常体得抜きの仏教は世界最下の宗教に堕落する(現にそうなりかけてるし)。

そういうわけで、いくら挫折してもそうやすやすとは降参できない。しかし、何度やっても、すぐ忘れ、気づくと止めている現実が眼前にある。「いや、止めてない。またすぐやるんだから」と言い張ってるだけ。
まあ、こればっかりは最初から最期まで自己責任でなんとかするしかないのはわかってる。できてもできなくても結果を引き受けるのは自分以外ありはしない。

では、おれはどうしたらいいか…いろいろ考えた結果、呼吸瞑想に集中することにした。空気が鼻先を出入りすることだけを確認し続ける作業で、人それぞれだが、今のおれにはこれが向いているようだ。

 

 

 

 

 

スマナサーラ長老の法話

 

 
 
 
(過去記事増補編集再録)