YouTubeでビートたけし主演ドラマ「あの戦争は何だったのか~日米開戦と東条英機」(TBS系列)を観ることができる。
あの戦争は何だったのか(全12)
坂口安吾『続堕落論』は、おれのBibleの一つだが、そのなかにこう書いてある。
ナンセンス! ああナンセンス極まれり。
この言葉の意味が「あの戦争は何だったのか~日米開戦と東条英機」を観て、はじめて鮮明に理解できた。
その、古来日本の軍人が天皇をどう利用してきたかについての文章。
藤原氏や将軍家にとって何がために天皇制が必要であったか。何が故に彼等自身が最高の主権を握らなかったか。それは彼等が自ら主権を握るよりも、天皇制が都合がよかったからで、彼らは自分自身が天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分が先ずまっさきにその号令に服従してみせることによって号令が更によく行きわたることを心得ていた。その天皇の号令とは天皇自身の意志ではなく、実は彼等の号令であり、彼等は自分の欲するところを天皇の名に於て行い、自分が先ずまっさきにその号令に服してみせる、自分が天皇に服す範を人民に押しつけることによって、自分の号令を押しつけるのである。
自分自らを神と称し絶対の尊厳を人民に要求することは不可能だ。だが、自分が天皇にぬかずくことによって天皇を神たらしめ、それを人民に押しつけることは可能なのである。そこで彼等は天皇の擁立を自分勝手にやりながら、天皇の前にぬかずき、自分がぬかずくことによって天皇の尊厳を人民に強要し、その尊厳を利用して号令していた。
それは遠い歴史の藤原氏や武家のみの物語ではないのだ。見給え。この戦争がそうではないか。実際天皇は知らないのだ。命令してはいないのだ。ただ軍人の意志である。満洲の一角で事変の火の手があがったという。華北の一角で火の手が切られたという。
(引用終。強調は私です)
この洞察は普遍的で、なにも日本の軍人と天皇に限定された狭い洞察ではない。
過去記事「我という無明 無我」の中で、おれは次のように書いた。
最善の無我には及び難いから、神の前に小我を殺し神の大我を生きるという「次善策」を採る。
この覚束無い便法に兇悪な副作用のあることは後の歴史に証明されてる。
絶妙手とおもわれたが、そのコストは大きすぎた。いくら神の大我だと強弁したって我に違いはないからだ。
(引用終)
いくら神の大我だと強弁したって我に違いはない
というのは
神の大我を僭称して自分の我を通すから違いはない
という意味だ。
天皇を「一神教の創造主」に読み替え、軍人を広く「神の大我を僭称して自分の我を通す者」に読み替えれば「神をないがしろにし、根柢的に神を冒涜しながら、盲目的に神を崇拝しているのである。」となり、まったく同じ構造で世界中に「ナンセンス! ああナンセンス極まれり。」な兇悪が行われてきたことに気づく。
しかし人類は、このような共同幻想が、どれほど真如に反してるかを繰り返し思い知っても、決して改正しない。
改変を金輪際受けつけないと決めてる自分に、気づいてもない。
ナンセンス!
ああナンセンス極まれり。
(My Favorite Songs)
Deep purple "Burn" 和訳字幕付き
(過去記事編集再録)