哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

私たちには、心に煩悩がない時間が十分たくさんあります。

ターン・プッタタート講義、あるいは法話「誰のために生きるのか」より引用。強調はわたし。以下同様。
自分の善に厭きたら、「本当には自分ではない」という話を教えます。だから無我の話、自分がない話は後になります。私たちは自分がある教義を十分信じた後、それから、仏教の自分がない話を学びます。
[引用終]

 日常人は悪い意味で自分がないので、まず自己を確立する必要がある。その後に無我の話をする。

 自分の善に厭きたら←ここまでたどり着く人、道徳に厭きるほどの人がまず少ない。現実は、最高の教育を受けながら道徳の意味さへ知ろうとしない獣レベルの人が増えてるくらいだ。
しかし、ターン・プッタタートの話はまだ先がある。今日は先に進もう。


[引用続き]
…私たちがまとめてヒンドゥーと呼ぶ、バラモンヴェーダの人たちは止めるのを認めず、自分という言葉を変えようとしないので、彼らにはまだ自分あり、善くなっていく自分があります。自然に感じる自分ではありません。

 彼らも同じように、自然に「俺、俺のもの」と感じるものは本物ではなく、無明であり、煩悩なので捨てなければならず、その種の自分を捨てた時、本当の自分、永遠の自分に出合う、と教えます。だから彼らには永遠の自分があります。そして永遠の自分になって終わります。
[引用終]

 本当の自分・永遠の自分では、まだ無明から全然自由になっていない。真我・大我も我に違いないからだめだ。たんなる表現の、言葉の問題じゃない。

 しっかりした自己の確立ぬきに無我の話を聞くと、神我・真我・大我に落ちてしまう。


[引用続き]
「自分、自分のもの」という感覚は誤った知識です。そして強く執着するので、知識があってもないのと同じで、間違って知っていれば、心を重くする問題を生じさせます。
[引用終]

 知識があってもないのと同じ←真我・大我だろうと我があればこうなる危険がある。



[引用続き]
私は、人は六処(目・耳・鼻・舌・体・心)に触れるものがある時、時々煩悩があり、時々信じることがあり、時々苦があり、時々無明があると信じます。みなさんがどちらを信じるか、自分で考えてください。私は、四六時中煩悩があったら、全員狂って死ぬと見ています。全員狂って死滅し、ここに来て座っていません。試しに絶えず煩悩があってみてください。少なくても神経症になって訳が分からなくなり、あるいは狂って死にます。

 だから私たちには、心に煩悩がない時間がたくさん、十分たくさんあります。心に煩悩がない時間を維持して、そして何をするにも、「私は何をするにも煩悩でしない」と言えるまで増やしてください。勤勉に勉強するにも、煩悩で勤勉にしないで、知性で勤勉にしてください。知性ですれば大丈夫です。煩悩でなければ苦はありません。煩悩の力でしないで、知性の力でしてください。
[引用終]