哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

ブッダの獅子吼「筏のたとえ」

19-01-17記事

の補足です。

 

 

 ブッダの教えに「いかだのたとえ」がある。

※参考
曹洞宗古城山荒村寺「筏の如く|仏教エピソード第17話」


 人格神を奉ずるユダヤ教キリスト教イスラム教等の最大の弱点は、筏を捨てられないことだ。

 迷いの川を渡り終えて陸路を行くときになっても、重い筏を後生大事に抱きしめて、不自由な足取りで歩いている。

重い筏とは、もちろん唯一絶対の神のことだ。

ユダヤ教徒キリスト教徒とイスラム教徒は、この筏を背負って殺し合う。


 ユダヤ教キリスト教イスラム教等が主張する、人間に話しかけたり命令したりする絶対人格神とは、「存在の意味」を俗耳に入りやすいように対象化してみせたものだ。


神の現存を実感している信仰者が、そのことに気づいていようといまいと、彼・彼女のしていることはそういうことなのだ、とおれは思う。







しかし、これには極めて大きな無理がある。


「存在の意味」は、決して対象化されえない唯一のものだからだ。




その無理のために、絶対人格神宗教においては、不寛容で愚劣な思想的混乱の大パノラマが悽惨に繰り返されてきた。



「真実の神はひとり」という一点で、すべての絶対人格神宗教の主張は一致している。ところが信者の俗物的習性から、「自分達の神」だけが本物で他のは悪魔だと言いあい、互いにいがみあい、終には殺しあう吐き気を催す激甚な副作用が実際に繰り返し生じてきた。
各宗派の信者の「自分達の神」とは、事実上拡大解釈された「我」に他ならないからだ。大我のなかでグループ呆けしている。



 おれはウォーキング中に、ネットからMP3プレーヤーにDLした聖書の朗読を、よく聴いている。
新約だけでなく旧約の詩篇箴言などもじつに興味深い。

キリスト教の様々な教えが、仏教の様々な教えと、ちゃんと照応していることに気づくからだ。


ただし、仏教の真髄「無我の教え」だけはキリスト教にない。
反対にキリスト教の拠り所「唯一絶対永久不滅全知全能人格神」だけは仏教にない。
(同様の唯一神を信奉するイスラム教等でも事情はまったく同じである)



これはいったいなぜなのか?








理由は簡単

          「唯一絶対永久不滅全知全能人格神」とは要するに「我」のこと

          で、無我とは正に真逆の主張だからだ。

 超絶テクニックを極限まで駆使して最強に盛った詐欺メークで「神」に成りすましているが、その厚化粧をすべて洗い流したスッピンは「我」以外の何物でもない。

人類の大多数は、言葉をしゃべりだす幼児期からすでに内面的に「我」の奴隷だから、外面的にも遅かれ早かれ「神」の奴隷になることで、内と外に益体もないハーモニーを感じようと欲する。



仏教から云えば、その教えがどれほど豪壮でどれだけ念が入っていても、たんなる我の厚化粧に過ぎず、
けっきょく無我という肝心かなめの事実に気づいていない妄想状態の域を出ない。








 ただし気づかないのには歴とした理由もある。
(このあたりは社会の悩ましいところだ)



 無我の教えは布教が難しい。
ことばの知識だけでは、サティの体験抜きでは、どうにもならないからだ。

エスキリストには、(それを踏まえ)あえてという菩薩感が濃密にある。

最善の無我には及び難いから、神の前に小我を殺し神の大我を生きるという「次善策」を採る。この覚束無い便法に兇悪な副作用のあることは後の歴史に証明されている。
いくら神の大我だと強弁したって我に違いはないからだ。人類はキリスト教イスラム教のコストを今もはらい続けている。


 人類の習性が変わらない限り、この筏を背負って殺し合う愚行は過去の話だけではない。今は殺し合いに疲れて一服してるが、またぞろおっ始めるに違いない。

俗耳を容易にひきつけてきた絶妙手の代償はあまりにも大きい。


 おれはマザーテレサを偉大な人として尊敬するが、その彼女でさえ、自分の信じる唯一絶対の人格神にたいして筏という認識は最後まで持たなかったとおもう。そこに、愛だけでは克服しにくい問題がある。

イスラム教は「神に息子なんかおるかい」と言っている。キリスト教徒は「それも正しい」とはおもえないだろう。

仏教徒から見ると「つまらんことでいがみ合って」とあきれるが、一神教の人たちはそれで殺し合いまではじめる。「それは違う。愛の教えがあるから…」といかに弁じても、一神教徒達の殺し合いの歴史は覆うべくもない。




 しかし頼みの綱の仏教も
入滅後の仏陀は、サティの修行を忘れた信者達によって、事実上永久不滅の神のように変容されていったし、一神教と構造の似た浄土系信仰が現れると、抵抗なく広く受け入れられていった。

これらは、遣る方ない事実だ。

 

※浄土系信仰とは無我の教義をあえて言挙げせず唯一神も持たない、ある意味絶妙の仏教。超越絶対神を欲す大衆圧力に常に押されながら崖っぷちで持堪える危なっかしい仏教でもある。

 

 

(過去記事統合増補編集再録)