晴天微風。8時半隣町へ。久しぶりの好天気で快適サイクリング。時間調整なしでベストタイミング開店5分前スシロー到着。一番客で入店。今日(11日)から「大大大大感謝の春得祭」【第一弾】開催。
青森産塩〆ひらめ税込100円
うなぎ税込100円
ゆっくり食べながら聴く朗読.mp3は永井荷風『妾宅』
朗読 永井荷風『妾宅』
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この小説(随想)の主人公珍々先生の口を借りて、荷風は新しき芸術新しき文学を唱うる若き近世人の日常の無趣味無神経なふるまいを口を極めて罵倒してる。
彼らは口に伊太利亜復興期の美術を論じ、仏国近世の抒情詩を云々して、芸術即ち生活、生活即ち美とまでいい做しながらその言行の一致せざる事むしろ憐むべきものがある。看よ。彼らは己れの容貌と体格とに調和すべき日常の衣服の品質縞柄さえ、満足には撰択し得ないではないか。或者は代言人の玄関番の如く、或者は歯医者の零落の如く、或者は非番巡査の如く、また或者は浪花節語りの如く、壮士役者の馬の足の如く、その外見は千差万様なれども、その褌の汚さ加減はいずれもさぞやと察せられるものばかりである。彼らはまた己れが思想の伴侶たるべき机上の文房具に対しても何らの興味も愛好心もなく、卑俗の商人が売捌く非美術的の意匠を以て、更に意とする処がない。彼らは単に己れの居室を不潔乱雑にしている位ならまだしもの事である。公衆のために設けられたる料理屋の座敷に上っては、掛物と称する絵画と置物と称する彫刻品を置いた床の間に、泥だらけの外套を投げ出し、掃き清めたる小庭に巻煙草の吸殻を捨て、畳の上に焼け焦しをなし、火鉢の灰に啖を吐くなぞ、一挙一動いささかも居室、家具、食器、庭園等の美術に対して、尊敬の意も愛惜の念も何にもない。軍人か土方の親方ならばそれでも差支はなかろうが、いやしくも美と調和を口にする画家文士にして、かくの如き粗暴なる生活をなしつつ、毫も己れの芸術的良心に恥る事なきは、実にや怪しともまた怪しき限りである。さればこれらの心なき芸術家によりて新に興さるる新しき文学、新しき劇、新しき絵画、新しき音楽が如何にも皮相的にして精神気魄に乏しきはむしろ当然の話である。
頑固な通人荷風は、坂口安吾の仕事部屋見たら、ゲー吐くかも。
また荷風は、当時一般的だったごく庶民的な便所を、世界に誇る日本独自の美として礼賛する。
旧習に従った極めて平凡なる日本人の住家について、先ずその便所なるものが縁側と座敷の障子、庭などと相俟って、如何なる審美的価値を有しているかを観察せよ。母家から別れたその小さな低い鱗葺の屋根といい、竹格子の窓といい、入口の杉戸といい、殊に手を洗う縁先の水鉢、柄杓、その傍には極って葉蘭や石蕗などを下草にして、南天や紅梅の如き庭木が目隠しの柴垣を後にして立っている有様、春の朝には鶯がこの手水鉢の水を飲みに柄杓の柄にとまる。夏の夕には縁の下から大な蟇が湿った青苔の上にその腹を引摺りながら歩き出る。家の主人が石菖や金魚の水鉢を縁側に置いて楽しむのも大抵はこの手水鉢の近くである。宿の妻が虫籠や風鈴を吊すのもやはり便所の戸口近くである。草双紙の表紙や見返しの意匠なぞには、便所の戸と掛手拭と手水鉢とが、如何に多く使用されているか分らない。かくの如く都会における家庭の幽雅なる方面、町中の住いの詩的情趣を、専ら便所とその周囲の情景に仰いだのは実際日本ばかりであろう。西洋の家庭には何処に便所があるか決して分らぬようにしてある。習慣と道徳とを無視する如何に狂激なる仏蘭西の画家といえども、まだ便所の詩趣を主題にしたものはないようである。そこへ行くと、江戸の浮世絵師は便所と女とを配合して、巧みなる冒険に成功しているのではないか。細帯しどけなき寝衣姿の女が、懐紙を口に銜て、例の艶かしい立膝ながらに手水鉢の柄杓から水を汲んで手先を洗っていると、その傍に置いた寝屋の雪洞の光は、この流派の常として極端に陰影の度を誇張した区劃の中に夜の小雨のいと蕭条に海棠の花弁を散す小庭の風情を見せている等は、誰でも知っている、誰でも喜ぶ、誰でも誘われずにはいられぬ微妙な無声の詩ではないか。
こういう荷風の奇妙でひねこびた美意識は、一部に強い共感を得て、やがて
谷崎潤一郎 「陰翳礼讃」に結実したとおもう。
ちなみに「陰翳礼讃」は中学(高校?)の教科書で一部を読んだ。その時、こんな爺くさいへそ曲がった考えもあるとはと心底驚いた覚えがある。
(My Favorite Songs)
The Tremeloes - Silence Is Golden (1967) 4K
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