哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

脳が(言葉で)考えられないこと

 
自然状態の人間には、いくら聞いても聴けず、いくら見ても観えず、いくら分かっても解らない事実がある。
それが自分意識=幻想という事実だ。

 

以前大ヒットした娯楽映画「ドクター・ストレンジ」を見た人は多いだろう。


ドクター・ストレンジ 本編プレビュー映像

 
 

 

上の「プレビュー映像」のすぐ後の本編シーンで、闇の魔術師カエシリウスは、主人公ストレンジを仲間に引き入れようと次のように熱弁をふるう。
「すべては老い、すべては死ぬ。いつか太陽は消滅し我々の世界も滅びる。
だが暗黒次元は時間を超越している。我々の世界も、その一部になることで理想郷となり得る。美しい楽園に。永遠に生き続ける。誰もが等しく永遠の命を得る。…

…人は善悪で判断するが問題は時間だ。時間が全てを殺す」

「…世界は間違っている。
人が求めるのは永遠。だが時間が我々を縛る。時間は屈辱。死は屈辱」
と。

 

だから、時間こそ人間の真の敵であり、時間を超越する暗黒次元の神ドラマムゥによって永遠の命と幸福が得られる、と主張する。

 

人間が自分は死ぬ定めだと本当に認めれば、
人間は自由になり幸福になり世界は平和になる
ブッダは明解に説いてるが、大多数の人々は大昔から今に至るまでずっと、これと真逆の幻想を抱いてる。

 

すなわち、自分に死などありえない、自分は永遠に生き続けると妄信してる。

 

だから、たかがマーベルアメコミのセリフにも、あなたの心はざわついてしまう。自分の隠し事を鼻先に突きつけられた気分になるからだ。

 

 人間は死ぬ運命をごまかして生きてる。

 

沈むタイタニック号の中で、いつも通り椅子を綺麗に並べて、我が事成れりと満足してる乗員のような人間が多い。
ホールに1ミリの狂いなく椅子を整然と並べることに心血を注ぐが、その努力は船が沈んだら意味がない。このことを深く考えないよう常に注意してる。
本人は一所懸命頑張ってるつもりだが、ブッダはこの人間の生きざまを放逸怠けてる)と断じた。

 

死んだらあの世に引越して生き続けるというアホ話で自分をごまかすな。

 

俺、俺のもの」とは、いついかなる場合にも絶対両立できない。
大多数の人は「俺、俺のもの」が何よりも大事なので、自動的に死を無いことにせざるをえない。
しかし、あたりまえのことだが死は並はずれて歴然の事実なので、この不条理きわまる妄想は常に強烈なストレスになり人間を圧迫してる、たとえまったく自覚がなくとも。

 

だから、必要なガス抜きとして、こういうコミックや映画が大いに受けるのだ。

 

一時しのぎに過ぎないこの種のガス抜きを繰り返すと、やがて深刻な副作用を、つまりいっそうタチの悪いルサンチマン幻想を惹起する。
それが共通原因となってイジメ乃至戦争を結果する。
明らかな事実としてイジメ乃至戦争が一向になくならないのは、みんなでこの根本原因俺、俺のものを厚く庇護してるからだ。

 

過去記事「受動意識仮説 「自己をととのえよ」の意味 」で
人間は物事を自分で判断してると信じてるが、それは幻想だ。
判断は五感の刺激と無意識反応でほとんど自動的に決定され、意識はその事後承諾と自己弁護しかしてない。
と書いた。

 

自分意識=幻想の事実。
しかし、大部分の人たちの脳には肝心のことは一言も届かない。
彼らの理性はあらかじめ「生きんとする盲目の意志」に強姦されてて、自律的に機能できなくなってるからだ。自己弁護の言い訳しかしない奴隷理性は、分かってないことでも、ぼんやり分かったふりをして話を有耶無耶にてしまう。

 

 賭けてもいい、いつか彼らの理性が自律的に働ける日が来たら、これほど明々白々な話が以前の自分はなぜちっとも分からなかったんだろうと、全員心の底からあきれることは確実だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  (My Favorite Songs) 

 

(過去記事編集再録)