死という人生の最終場面にどう対処するか。
この重いテーマを扱った番組やドラマを、おれは努めてたくさん観てきたほうだとおもうが、「なるほど!」とおもったことが実は一度もないのだ。
単身引越しする人の身辺整理の話を聞いてる気分になるだけ。今回もそうだった。
この重いテーマを扱った番組やドラマを、おれは努めてたくさん観てきたほうだとおもうが、「なるほど!」とおもったことが実は一度もないのだ。
単身引越しする人の身辺整理の話を聞いてる気分になるだけ。今回もそうだった。
人間は、死という事実は無いことにして生きている。
難問を先送りにしてきた。
さあいよいよ死ぬというその時になって、急にその答えが見つかるわけもない。
さあいよいよ死ぬというその時になって、急にその答えが見つかるわけもない。
物凄まじい死の事実に直面させられると、
1.混乱して支離滅裂になる。
2.死んでも生きてる幻想になお一層強くしがみつく。
この2つの反応しかできない。たいていの人間は両方やる。
順番に
1.で体力を使い切って
2.に落ちる。
「我」にしがみつけば「死」は無いことにするしかない。実際、大多数の人は先を考えずにそうしている。
だからいよいよ死ぬというその時に混乱し、未開人のように魂不滅幻想に取りすがるしかなくなる、本人も周囲も。
それを、美辞麗句でいかように飾ろうと
「答えはないので、天国に行くとおもってあきらめましょう」
と言ってるのと同じだとおもう。
これではダメだ。
ではどうする。
このあたりで
ことに、ハッキリと、気づけるかどうかで、
我と 死は 両立 できない。 |
道が決定的に別れる。
真実の答えをここで見つけることができる。よそにはない。
しかし
言葉で考える限り、
言葉には主体が前提され、
この構造によって
「我の呪縛」から逃れられない。
(My Favorite Songs)
(過去記事統合増補編集再録)