哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

世間が絶対視する幻想を捨て、事実を受け入れる

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 人生の問題を解決する唯一の方法は、幻想を捨てて事実を受け入れることだ。
事実を受け入れることは問題解決の第一歩に過ぎないが、少なくとも確実にいえるのは、これ以外の方法では問題解決が不可能になるということだ。
ところが、 大多数の人々は事実と真正面から向き合うことをしない。その代わりに、こうあって欲しいという、事実に反する幻想を望む。

かって、世界中の様々な宗教者が、その空気を読んで、人々の望みどおりの気休めの作り話を提供した。
あなたは永遠不滅の魂で、けっして死にません。と。
人々は、望み通り上手に騙してくれる詐欺師を狂喜して受け入れた。
世間は我存在を絶対視したために、死など無いという作り話にしがみつくほかしようがなくなったのだ。
騙されたがる者達は、その気休めの御神託に飛びついてしがみつき、目をつぶった。
 
哲学者は、もっと現代人にも受け入れやすい妥協案を提供した。
 
曰く、人生とは

苦しい現実を喜んで生きようと自分で決心しなおすことだ

と。

これは、ニーチェが「強者の完全なニヒリズム」「超人」などと自賛して以来、信者を増殖させてる妄想だ。

頭で考えるだけでブッダ直説の修行ができない輩の、あつかましい自己正当化に過ぎない。

時が経ち、この妄想が拡散しステレオタイプ化し、今や賢愚の別なくみんな申し合わせたように、この「悟り」に落着する。

 こうして新たな共同幻想は完成し、問題の真の解決は先延ばしにされ、局面はさらに悪化する。

 

 

 

(くどいのは重々承知ですが、ここが肝どころなので、また繰り返してます。悪しからず) 
 
釈尊の着眼は、
このような貪瞋痴にまみれた世間と真逆だ。
 
死は100パーセント確実だから、
世間が絶対視している
我存在こそが怪しい
 
と見抜いたのだ。
 

釈尊が発見した

 

無我という真理

 

は、生物一般の宿命的盲点になってる。 

 

自然状態の人間は、生まれてから、さあいよいよ死ぬというその瞬間まで、色・受・想・行・識に執着するのが性だから、この教えを聞いてすぐわかる者は非常に少ない。

賢愚を問わず誰もが「俺」ほど確実な実感は他にないと思いこんでるから、「俺、俺のもの」は錯覚だと言われたら「…あほか」と聞き流す。

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サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。

ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること