哲学は自然の探求→人生の理想の探求→個人の安心の探求と進んだ。これは人類の決まった思考パターンだとおもう。
科学はこのパターンをもう一度綿密にやり直して、いま最初の段階「自然の探求」の中頃を過ぎたあたりまで進んでる。
当然この後、人生の理想の探求→個人の安心の探求と思考をチェンジしつつ進むとおもう。
そして毎回最後に、仏教の門の前に立つことになるだろう。
思考のチェンジを何度やっても、この門は開かず、閉じたパターンの中を思考がループするだけだ。
科学はこのパターンをもう一度綿密にやり直して、いま最初の段階「自然の探求」の中頃を過ぎたあたりまで進んでる。
当然この後、人生の理想の探求→個人の安心の探求と思考をチェンジしつつ進むとおもう。
そして毎回最後に、仏教の門の前に立つことになるだろう。
思考のチェンジを何度やっても、この門は開かず、閉じたパターンの中を思考がループするだけだ。
出口のない堂々巡りからブレークスルーするには
思考のチェンジ
ではなく
思考のチェンジ
ではなく
「思考の仕方」のチェンジ
が実行されなければならない。
「思考の仕方」のチェンジとは
不思量底を思量するには、
かならず非思量をもちゐるなり
この非思量のことだ。
非思量とは、世間が怠け心で正解だと思ってる「何も考えるな」じゃない。
「何も考えるな」では教えのピントがまるっきり合っておらず、あほがあほをこじらせるイタイ結果しか生じない。
非思量とは、世間が怠け心で正解だと思ってる「何も考えるな」じゃない。
「何も考えるな」では教えのピントがまるっきり合っておらず、あほがあほをこじらせるイタイ結果しか生じない。
非思量は、
今ここに気づく
=ヴィパッサナー実践
のことだ。
今ここに気づく
=ヴィパッサナー実践
のことだ。
これは難しいことを全く要求してない。
一番端的に言えば自分が今してる吸う息吐く息に気づけばいいだけなんだから。
一番端的に言えば自分が今してる吸う息吐く息に気づけばいいだけなんだから。
呼吸を意識するのは、誰でも例外なく即座にできる究極の易行なので、かえってみんな頭からバカにして信じず、信じない自分がなんとなく勝手に5分と続かない難行にしてるだけだ。
これがために自業自得果で一生を忙しく怠け過ごして、空しく死ぬ他なくなる。
「あはれといふも、なかなかおろかなり」
「あはれといふも、なかなかおろかなり」
ヴィパッサナー実践は、まさに今ここで起きることに気づくことだから、もちろん呼吸だけに限らない。
歩く時なら足の裏が地面に触れる感覚に気づきながら「右足」「左足」と。
食べる時も漫然と食べない。ゆっくり一口一口気づきを絶やさずに。
実践のコツはアーチャン・チャー「駅と電車」のたとえがいいとおもう。
あなたは決して
電車に乗ってはいけない。
駅のようにふるまえ。電車は駅にやって来て駅を出ていく。
自分は駅であり、
心の内外で起きることは
すべて電車である。
電車は時が来れば駅に来て、
時が来れば駅から去っていく。
自分は電車に乗らず、
駅として安らぐと。
そういうたとえだ。
さらに深くいえば、
自分は駅である
というのも電車であると。
(過去記事統合増補編集再録)