哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

衆生不思議という手品。「今日を生きる」より「明日があるさ」のほうが正しくなる?

今日を生きよう
グラス・ルーツ
 
 

 

 

 

歌詞見ると、別にそんなこと言ってないのに、邦題は「明日を生きよう」にされてた。
その方が大衆に好まれて売れると判断したからだとおもう。この判断は商売人としては正解だと云える。

そういえば「明日があるさ」って何度もヒットしてる曲もあったな。

 

ブッダの教えを学び、

ヴィパッサナー実践をやると
「今日を生きよう」

が圧倒的に正しいと分かる。
「明日を生きよう」

明日があるさ

なんてとんでもない

考え違いだと分かる。

 

しかし、この真実が広く一般に認知されることは昔から一度もなかったし、今もない。

大衆が常にこの真理を本能的に嫌っているからだ。

その証拠に、上のグラス・ルーツ「今日を生きよう」も肝心の内容が間違っていて、動物的刹那主義に堕している。
刹那主義は、仏教の教えと正反対に曲説され「本能の奴隷である獣の生を選んで生きる」という最悪の内容に入れ替えられている。

こんな愚かしい考え違いをすれば、むしろ「明日があるさ」のほうが、まだいくらかましになるという逆転現象が起きる。

大衆は、自作自演(=自縄自縛)で、このような奇妙な手品を常にして、自分で自分に仇をなし真実を覆い隠している。

この手品は仏教用語衆生自秘(衆生不思議)といわれているいるものだ。


 人間はいったいなんのために、そんな自己破滅的なことをする?……
……無明のなせる業としか云いようがない。

 


衆生自秘
衆生は無明妄想を以て本性の真覚を覆蔵するが故に衆生自秘と曰う
空海『弁顕密二教論』)





「今日を生きよう」
正確には
 
今ここを生きる

というべきだが、
これは世間に伝染しているいわゆる刹那主義と何の関係もない。




最後に、ブッダの教えを、仏教伝道協会編『仏教聖典』から引用させていただきます。


過去を追ってはならない、

未来を待ってはならない。

ただ現在の一瞬だけを

強く生きねばならない。

 

 
 
 
(過去記事編集再録)