昨日の記事の続き。
[メモ]
「古池や蛙飛びこむ水の音」レベルを知らない
知ろうともしないが「知ってる」と言う
知ってるふりでそつなくふるまえるので
知る必要を感ぜず「知ってる」とおもう
脳は死を理解できなくとも
理解してるようにそつなくふるまえる
「古池や」レベルを理解せずとも
理解してるようにそつなくふるまえるように
死の知りかた
言葉の知りかた
チャットGPTの知りかた
これらは皆同じで
知ってるうちに入らない
サティがないからだ
[230409追記]
この「サティがない」「知ってるうちに入らない」知りかたを、空海は「衆生自秘」といってる。
日常人は、
自分たちの本音を
決して知りたがらない。
絶対に知りたがらず、しかも実際に知らないことによってのみ、
日常人はまさに、現にあるような日常人でいられるからだ。
葬式で、遺影に向かって
「私も遠からずそっちに行くので、待っててください」
などと普通に言う。
一方では、口先だけで
人は必ず死にます。
そんなの常識。
と、
自他互いに
大嘘をつき合う。
おれがこう言うと、相手は諭すように
「いやそれ逆だよ。葬式のほうが口先だけのタテマエだよ。人間が必ず死ぬ事実くらい、小学生でも知ってる。こっちが本音に決まってるじゃないか」と笑う。
脳は死を理解できない
という事実に気づいてないのだ。
言語は、日常人の日常人による日常を生きる自分たちのための道具だ。
この日常人専用道具の構造を分析研究すれば、日常人の本音が明らかになる。
なぜなら、
いまだ知らないはずのことを、
前もって絶対知りたくないとおもう
こんな放れ技を可能にするには、
無意識の本音が裏でしっかり働いてる必要がある。
これは、
生きるための必要から
善悪以前に割り出された、
止むに止まれぬ命がけの大嘘だ。
日常人は、そういう意味で、例外なく
骨の髄からの本能的嘘つきだ。
日常人は、ほんとのことだけは絶対言わない。
そのために、ほんとのこと以外は何でも言う。
その本音は、問わず語りに
日常言語のほころびとして現れてる。
知らないようで知ってる。
知ってるようで知らない。
これが、日常人における必然的実相で、
…自分が何を欲しているか知らないひたすらに生きんとする欲のエネルギーは、苦を苦と知りながら、苦に夢中になる。
「苦ですから、捨てなさいよ」
と教えても
「知ってるわ、それくらい。
人間なんて幻想なしで生きてけないんだよ」
と言われてしまう。
知ることが何の役にも立ってない。
のみならず、
知って、逆にもっと強くしがみつく。
苦を厭いながら苦を貪るので、
自業自得で、苦しみ続けて死にます。
それでもいっこうに懲りずに、
みんなこの生き方を繰り返す。
あなた、葬式に何度も出てますよね。
周りの残酷な結果を日々見て知ってるのに、
決して改めない。
とうてい単純な「無知」じゃない。
大衆は、自作自演(=自縄自縛)で、このような奇妙な手品を常にして、自分で自分に仇をなし真実を覆い隠している。
人間はいったいなんのために、こんな自滅行為を、し続けるのか?……
……無明のなせる業としかいいようがない。