哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

生まれることにも死ぬことにも生きることにも意味はない。人生が無意味だからこそ真の救いはある。

 

《仏教哲学》生まれることにも死ぬことにも生きることにも意味はない――宗教の洗脳を破り「価値ある生き方」を発見する スマナサーラ長老との対話|ブッダの智慧で答えます(一問一答) - YouTube

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 おれは、このブログで「人生に意味はない」と繰り返し書いてきました。

 

もちろん世間の「良識」と真逆のけしくりからん主張だから、

人前で口に出せば、バカにされ、不憫な子扱いされます

(もうね、さんざ経験済み)

 

 

しかし、これは

 

仏教の基本的スタンス

 

なんです。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 生命の実際は、(人間といえども)DNAレベルのプログラムが、そのつどの刺激に対して自動反応しているだけです。
 

 質問

一切皆苦の世界に、なぜ新たに(命を)生み出すのか?」

の答えは

「DNAプログラムの自動反応だから」

です。
 人間は、その反応を自分の意志でしていると思いたいので、「子孫存続」「尊い生命」などという屁理屈を後付したのだと思います。
 なぜなら、人間は生きるために意味と目的が必要だと感じるからです。
 子孫存続等の概念は

「みんな背に腹は代えられぬ切なさのあまりから割り出した嘘であります。そうして嘘から出た真実であります。…
要するに生活上の利害から割り出した嘘だから、大晦日に女郎のこぼす涙と同じくらいな実は含んでおります。…
わが身が危うければどんな無理なことでもしなければなりません。
そんな無法があるものかと力んで居る人は死ぬばかりであります。
だから現今ぴんぴん生息している人間は皆不正直もの」

(引用は「夏目漱石 文芸の哲学的基礎青空文庫から)

 


…この

 

確信犯的不正直

 

は、人類の知恵であって、ひとくちに悪いとはなかなかいえません。


※ 漱石の文章は、時間や空間という人間の持つ最根本観念について「大晦日に女郎のこぼす涙と同じくらいな実は含んでおります」が「背に腹は代えられぬ切なさのあまりから割り出した嘘であります」と説いたもので、だからまして子孫存続等の概念などはいうまでもないという趣旨で引用させてもらいました。


 

  

 

 
 
 
 
 
 
 大多数の人々は事実と真正面から向き合うことをしない。
あらゆる問題を解決するには、常に例外なくそうするしかないのに。
その代わりに、こうあって欲しいという、事実に反する幻想を望む。

かって、世界中の様々な宗教者が、その空気を読んで、人々の望みどおりの気休めの作り話を提供し、洗脳にかかった。騙されたがる者達は、望み通り上手に騙してくれる詐欺師を狂喜して受け入れた。

世間は我存在を絶対視したために、死など無いという作り話にしがみつくほかしようがなくなったのだ。
 
人々はその気休めの御神託に飛びついてしがみつき、目をつぶった。
 
 
 

 こうして宗教の洗脳が完成し、問題の解決は先延ばしにされ、局面がさらに悪化していった。

 

今だに世間に蔓延している、聞き古しの洗脳呪文。

あなたは、ありのままでいいんですよ。そのままで救われています。あなたはとっくに悟っています。あなたは永遠不滅の魂で、けっして死にません。すべてはうまくいっていて、あなたのどんな願いも、すでにかなっています。

何の問題もないと今すぐ気づいてください。

それだけでAll OKなんですよ

幸せなあなた!

幸せなあなた!あなた!あなた!

幸せな我!我!我!我!我!

 

 

 

 

(くどいのは重々承知ですが、
ここが肝どころなので
また繰り返します。
悪しからず) 
 
 釈尊の着眼は、
このような貪瞋痴にまみれた世間と真逆だ。
 
死は100パーセント確実だから、
世間が絶対視している
我存在こそが怪しい
 
と見抜いたのだ。

 

 人生の問題を解決する唯一の方法は、幻想を捨てて事実を受け入れることだ。
事実を受け入れることは問題解決の第一歩に過ぎないが、少なくとも確実にいえるのは、これ以外の方法では問題解決が不可能になるということだ。

誰でも死ぬから、人生は無意味だ。
これは疑いようのない明白な事実だ。

しかし「死んでしまうんだから人生に意味無し」と口に出せば、世間で馬鹿扱いされるのがおちだろう。
世間は問題解決の第一歩が怖くて踏み出せなかったので、みんなで共同幻想に逃げ込んだからだ。
最大のピンチこそ最大のチャンスかもしれないとは夢にもおもえない臆病者達。

 
一切皆苦と明言した釈尊は逃げなかった。
いや、逃げようがなかった。
人生は無意味だとはっきり気づいた人に、逃げるという幻想の脇道がもはや存在しないので、残った事実という一本道を行くしかないからだ。
 
釈尊は最後まで真っ直ぐ突っ切って、問題を正面突破で見事に解決した。

おれも逃げることだけはしない、逃げようがない、最後までたどりつけなくても。

 

 

さて、ここまでは良い。レベル1無事終了。
そう、これまだレベル1なんですよ。
 
はい次、レベル2に移ります。

せっかくここまで間違わずに正しい道を進んできたのに、大多数の者は次の一歩で大きく踏み外し、あっという間に奈落の底にもろとも転落していく。

 

真実に目覚めるとは、結局

苦しい現実を喜んで生きようと自分で決心しなおすことだ

という、アホみたいな結論になる。

 

ニーチェが「強者の完全なニヒリズム」「超人」などと自賛して以来、追従者を増殖させてる妄想だ。

これ、頭で考えるだけでブッダ直説の修行ができない輩の、あつかましい自己正当化に過ぎません。

時が経ち、この妄想が拡散しステレオタイプ化し、今や賢愚の別なくみんな申し合わせたように、この結論に落着する。

 

 

 夢から覚めることが、単に
また最悪の現実に戻って全力でのめり込むこと
(War das das Leben? Wohlan! Noch Ein Mal!)
なんかであるはずないやろ。

ちょっと冷静に考えたらわかりそうなもんだろうに。
 
 


真実に目覚めるとはそんなことではない。


ブッダの教えをよくよく聞けば、
「目覚める」の真の意味がきっとわかる。

 

ブッダの感興のことば26・17 より引用します)

見られたことは見られただけのものであると知り、聞かれたことは聞かれただけのものであると知り、考えられたことはまた同様に考えられただけのものであると知り、また識別されたことは識別されただけのものであると知ったならば、苦しみが終滅すると説かれる。

(引用終)

 

 「目覚める」とは、

見られたことは見られただけのものであると知り、聞かれたことは聞かれただけのものであると知り、考えられたことはまた同様に考えられただけのものであると知り、また識別されたことは識別されただけのものであると知

ることだ。

 

 

 

 

 

自然状態の人間は、生まれてから、さあいよいよ死ぬというその瞬間まで、色・受・想・行・識に執着するのが性だから、このブッダの教えを聞いてすぐわかる者はブッダ在世中でも少なかった。

 

しかし、今でも自己省察に至るまでよくよく考えれば、やがて必ずわかることとおもう。

 

脳で考える限り、言葉で考えており、

言葉の考えは必ず「俺、俺のもの」に害され支配される。

 

これが

身に刺さった矢である

と気づいたなら、ブッダヴィパッサナー実践法の意味と価値に気づく。

 

 

 

サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。

ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること

 

 
 
 
 
 
 
 

 

 

 (My Favorite Songs)