哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

わたしが説かないことは説かないと了解せよ

ブッダの感興のことば29・5中村 元訳)より引用します。
(経験するものを)実質のある物だと思って、走り近づいて行くが、ただそのたびごとに新しい束縛を身に受けるだけである。
 
暗黒のなかから出て来た蛾が(火の中に)落ちるようなものである。
 
かれらは、見たり聞いたりしたことに心が執着しているのである。
(引用終)
 
 
 全ての動物がそうであるように人間の脳にも生まれながらにしてすでに、火の中に落ちる蛾に例えられるプログラムが埋め込まれている。しかし人間はそのプログラムに逆らって自由にふるまう可能性を持っている唯一の存在でもある。
 
ただし、人類の99%は、この人間だけが持っている自由を一度も行使しないで、動物の生死を選んで生死するのが現実だ。
この人間の惨状を法華経は、明珠在掌に気づかず、一生を終わってしまう乞食に喩えている。
 
 
 
 
 
 
(同26・17)より引用します。
見られたことは見られただけのものであると知り、聞かれたことは聞かれただけのものであると知り、考えられたことはまた同様に考えられただけのものであると知り、また識別されたことは識別されただけのものであると知ったならば、苦しみが終滅すると説かれる。
 
 
(同27・7,8)より引用します。
人々は自我観念にたより、また他人という観念にとらわれている。

このことわりを或る人々は知らない。
 
 
実にかれらはそれを(身に刺さった)矢であるとはみなさない。
 
ところがこれを、人々が執著しこだわっている矢であるとあらかじめ見た人は、「われが為す」という観念に害されることもないし、「他人が為す」という観念に害されることもないであろう。 
(引用終。強調は私です)
 
 
 
 脳で考える限り、言葉で考えており、言葉の考えは必ず「俺、俺のもの」に害され支配される。
これが(身に刺さった)矢であると気づいたなら、やがてブッダのヴィパッサナー実践法の意味と価値に気づく。
 
 
 
 
 
 ウパニシャッドと仏教は共通点が多い。

中でもバガヴァッド・ギーターの教えは類似点が多い。

同時代のジャイナ教と仏教も、言い回しまで含めて共通部分が多い。
 
 
 
 
だから、
わたしが説かないことは説かないと了解せよ。
(毒矢のたとえ)
という釈尊の教えが極めて重要だ。


釈尊独自の教えを知りたいと思う人は、釈尊がなにを説いたか以上に、なにを説かなかったかに注意しなければならない。
 
 
 
釈尊アートマン(霊魂)を説かなかった。

釈尊は「汝はそれなり」(梵我一如)を説かなかった。
 
釈尊は梵我一如的なアイデアを思いつけなかったので説けなかった、という立場を、おれはとりません。釈尊は人々が常に陥るこの種の迷妄をよく承知していました。
 
 世界中の聖者のなかで、「アートマン」(=我)は迷いだと明確に否定して、教えの根本に据えたのは釈尊だけだ。

この真理は、通常の思考パターンの中では理解できない。
 
 
世界中のすべての言語は(したがって思考は)、けっきょくのところアートマンが神となる構造を持っているからだ。
 
 
 
事実、世界の宗教はほとんど、このアートマンに乗っ取られている。

仏教の中でさえ、アートマン、「汝はそれなり」(梵我一如)は、仏性とか大我とか耳触りの良い言葉とともにリニューアルして、ゾンビのように執拗に復活してくる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 他方西洋では、(おれはショーペンハウアーによって釈尊に導かれたのだが)ショーペンハウアー自身は仏教以前からの古代インド思想(ウパニシャッド等)に決定的触発を受けて生涯の主著「意志と表象としての世界」を書いている。
ショーペンハウアーは「汝はそれなり」を絶賛して自分の哲学に受け入れたが、「それ」を「生きんとする盲目の意志」だとした。
 
 
 
その「盲目の意志」の克服こそ人間の理想だと主張したことで、ショーペンハウアー哲学は釈尊の教えに適っていると、おれは思う。

「汝はそれなり」の意味を誤解しているという非難はあたらない。ショーペンハウアーは天才的洞察によって意識的に読みかえて正道を再現したのだから。

西洋哲学者のなかで、ショーペンハウアーただひとりが、梵我一如は真の悟りではないと明確に気づいていたと思う。
 
 

梵我一如とは、永久不滅全能唯一絶対神(大我)と個々の不死の魂(小我)は一緒というヒンズー教の主張です。

 

 

 

妄想2個の串団子。


梵我一如はブッダの悟りでも教えでもない。

大我と小我いずれも我に過ぎず、

それが一如だとて何の意味がある?
いったい何の意味がある?



ブッダはすべての我を虚妄と見抜いた。

 
 
 
ブッダの感興のことば15章 中村 元訳)より引用します。
ブッダの説かれたとおりに、呼吸を整える思念をよく修行して、完成し、順次に(諸の煩悩を)克服してきた人は、雲を脱れた月のように、この世を照らす。
 
 
もしも或る人にとって身体について真相をおもうことがつねに完全に確立したならば、その(「アートマン」という迷い)は存在しないであろう。…
この人は
種々の思いに順次に住する

から、やがて適当な時が来れば、執着(の流れ)を超えるであろう。

(引用終。強調は私です)
 
 
 
 
 静かな部屋に入って、思考を止め、呼吸を整え、アートマンは迷いと知って、ただ「種々の思いに順次に住する」修行ヴィパッサナー実践法は、人間だけが成しえる奇跡だと思う。
 
 
 
(過去記事統合増補編集再々録)