(ブッダの感興のことば29・5中村 元訳)より引用します。
(経験するものを)実質のある物だと思って、走り近づいて行くが、ただそのたびごとに新しい束縛を身に受けるだけである。
暗黒のなかから出て来た蛾が(火の中に)落ちるようなものである。
かれらは、見たり聞いたりしたことに心が執着しているのである。
(引用終)
(引用終)
全ての動物がそうであるように人間の脳にも生まれながらにしてすでに、火の中に落ちる蛾に例えられるプログラムが埋め込まれている。しかし人間はそのプログラムに逆らって自由にふるまう可能性を持っている唯一の存在でもある。
(同26・17)より引用します。
見られたことは見られただけのものであると知り、聞かれたことは聞かれただけのものであると知り、考えられたことはまた同様に考えられただけのものであると知り、また識別されたことは識別されただけのものであると知ったならば、苦しみが終滅すると説かれる。
見られたことは見られただけのものであると知り、聞かれたことは聞かれただけのものであると知り、考えられたことはまた同様に考えられただけのものであると知り、また識別されたことは識別されただけのものであると知ったならば、苦しみが終滅すると説かれる。
(同27・7,8)より引用します。
人々は自我観念にたより、また他人という観念にとらわれている。
このことわりを或る人々は知らない。
人々は自我観念にたより、また他人という観念にとらわれている。
このことわりを或る人々は知らない。
実にかれらはそれを(身に刺さった)矢であるとはみなさない。
ところがこれを、人々が執著しこだわっている矢であるとあらかじめ見た人は、「われが為す」という観念に害されることもないし、「他人が為す」という観念に害されることもないであろう。
(引用終。強調は私です)
(引用終。強調は私です)
だから、
わたしが説かないことは説かないと了解せよ。(毒矢のたとえ)
という釈尊の教えが極めて重要だ。
釈尊独自の教えを知りたいと思う人は、釈尊がなにを説いたか以上に、なにを説かなかったかに注意しなければならない。
わたしが説かないことは説かないと了解せよ。(毒矢のたとえ)
という釈尊の教えが極めて重要だ。
釈尊独自の教えを知りたいと思う人は、釈尊がなにを説いたか以上に、なにを説かなかったかに注意しなければならない。
世界中のすべての言語は(したがって思考は)、けっきょくのところアートマンが神となる構造を持っているからだ。
事実、世界の宗教はほとんど、このアートマンに乗っ取られている。
仏教の中でさえ、アートマン、「汝はそれなり」(梵我一如)は、仏性とか大我とか耳触りの良い言葉とともにリニューアルして、ゾンビのように執拗に復活してくる。
仏教の中でさえ、アートマン、「汝はそれなり」(梵我一如)は、仏性とか大我とか耳触りの良い言葉とともにリニューアルして、ゾンビのように執拗に復活してくる。
他方西洋では、(おれは釈尊に導かれたのだが)ショーペンハウアー自身は仏教以前からの古代インド思想(ウパニシャッド等)に決定的触発を受けて生涯の主著「意志と表象としての世界」を書いている。 によって
ショーペンハウアーは「汝はそれなり」を絶賛して自分の哲学に受け入れたが、「それ」を「生きんとする盲目の意志」だとした。
ショーペンハウアーは「汝はそれなり」を絶賛して自分の哲学に受け入れたが、「それ」を「生きんとする盲目の意志」だとした。
その「盲目の意志」の克服こそ人間の理想だと主張したことで、ショーペンハウアー哲学は釈尊の教えに適っていると、おれは思う。
「汝はそれなり」の意味を誤解しているという非難はあたらない。ショーペンハウアーは天才的洞察によって意識的に読みかえて正道を再現したのだから。
西洋哲学者のなかで、ショーペンハウアーただひとりが、梵我一如は真の悟りではないと明確に気づいていたと思う。
「汝はそれなり」の意味を誤解しているという非難はあたらない。ショーペンハウアーは天才的洞察によって意識的に読みかえて正道を再現したのだから。
西洋哲学者のなかで、ショーペンハウアーただひとりが、梵我一如は真の悟りではないと明確に気づいていたと思う。
※ 梵我一如とは、永久不滅全能唯一絶対神(大我)と個々の不死の魂(小我)は一緒というヒンズー教の主張です。
妄想2個の串団子。
梵我一如はブッダの悟りでも教えでもない。
大我と小我いずれも我に過ぎず、
それが一如だとて何の意味がある?
いったい何の意味がある?
ブッダはすべての我を虚妄と見抜いた。
(ブッダの感興のことば15章 中村 元訳)より引用します。
ブッダの説かれたとおりに、呼吸を整える思念をよく修行して、完成し、順次に(諸の煩悩を)克服してきた人は、雲を脱れた月のように、この世を照らす。
ブッダの説かれたとおりに、呼吸を整える思念をよく修行して、完成し、順次に(諸の煩悩を)克服してきた人は、雲を脱れた月のように、この世を照らす。
もしも或る人にとって身体について真相を念 うことがつねに完全に確立したならば、その(「アートマン」という迷い)は存在しないであろう。…
この人は
種々の思いに順次に住する
から、やがて適当な時が来れば、執着(の流れ)を超えるであろう。
(引用終。強調は私です)
この人は
種々の思いに順次に住する
から、やがて適当な時が来れば、執着(の流れ)を超えるであろう。
(引用終。強調は私です)
静かな部屋に入って、思考を止め、呼吸を整え、アートマンは迷いと知って、ただ「種々の思いに順次に住する」修行(ヴィパッサナー実践法)は、人間だけが成しえる奇跡だと思う。
(過去記事統合増補編集再々録)