哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

フルッレイ・スダンマ長老法話「死について」

(テーラワーダに於ける)死について~第一回定例法話会 - YouTube

 

[メモと感想]

 

箭経(スッタニパータより)の偈

子供であろうが大人であろうが

愚か者であろうが智者であろうが

すべての者は死という悪魔に負ける。

 

五魔(五つの悪魔)

1.煩悩魔(煩悩の(が)悪魔)kilesa-māra

2.五蘊魔(五蘊の(が)悪魔)khandha-māra

3.行作魔(行(ぎょう)、行いの(が)悪魔)abhisaṅkhāra-māra

4.天魔(悪魔という神、天人)devaputta-māra

5.死魔(死という悪魔)maccu-māra

法話中の順番とは違います)

 

度々観察事(いつも観察すべき)経の偈

私は死ぬ人である、

死を越えられた人ではありません

ということを いつも観察して下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

過去記事「死に関して迂闊でない人」で感想を書いた。

 

プッタタート編訳「ブッダの言葉の宝庫」より
死に関して迂闊でない人
を要約して引用させていただきます。
正確な原文はリンクを参照してください。

 

 ある時、ブッダが比丘達に、大きな功徳があるマラナサティ(死隋念)を「どのように実践しているか」と訊ねました。

比丘A 「今日だけ、今晩だけの命かもしれないと思い修行に励みます」

比丘B 「昼の間しかない命かも知れないと思い修行に励みます」

比丘C 「托鉢して食べ終わるまでしか命がないかもしれないと思い修行に励みます」

比丘D 「ご飯を四、五口食べ終わるまでしか命がないかもしれないと思い修行に励みます」

比丘E 「あと一呼吸しか命がないかもしれないと思い修行に励みます」


ブッダは、比丘A、B、C、Dは「まだ不注意な人」「まだ漏の滅尽を遅らせるためにマラナサティをしている」と言い、比丘Eを「油断のない人」「本当に漏を滅すためにマラナサティをする人」と褒めました。

(要旨引用終)

 

 

 

比丘A、B、C、Dのように注意不足でいくら長くやっても何も結果は得られない。

やるならたとえ短くても、比丘Eのように、少しも油断なくやる必要がある。

 

ブッダは、あと一呼吸しか命が無いと死念する比丘Eを認め褒め、他の比丘ABCDは何の結果も生まない怠け者と強く叱責します。

 

 死に気づく修行は、

頭燃を払う真剣さで行なわなければ、

のんびりだらだら怠けているのとおなじだ。

 

正確には比丘DとEの間にもう一人います。この比丘は、一口食べる時間しか命がないと死念していると答え、ブッダはこの比丘も褒めます。その前の、4,5口食べる時間と答えた比丘Dは反対に叱られてますから、この辺りが、死念修行を成就させるか徒労に帰すかのボーダーラインだと分かります。

 

 

 

 


現実を見れば、

比丘Aの真似さえ難しい人

が圧倒的多数なのは、

 

苦聖諦の理解

 

が足りないからだ。

 

 

解脱した者だけが、死を超える。

死を超えるとは、

死なずにずっと生き続ける

ことじゃない。

そんなわけないでしょうに。

死を超えるとは、

輪廻から離脱すること

二度と生まれないこと。

生まれないから、もう死なない。

死を超えるとは、そういうことだ。

 

ところが、

大多数の人々は、

そもそもこれが大嫌い

大多数の人々は、

生まれ変わってでも

生き続けること

に夢中だ。

苦に夢中なのだから、

苦から解脱できるわけない。

 

だからまず、

苦聖諦を学ぶ必要

がある。

 

(大多数の人々は、

この苦聖諦も大嫌い。

悪い意味で

ブレないから、

ハッキリ言って

本人始動で変革しなきゃ

どうもならんけどネ。

このたぐいの事は

他人が与えることはできない。

自分で内省して気づくほかはない)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(My Favorite Songs)   
 ザ・マッコイズ。
「フィーバー」

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マッコイズ、もう1曲。
「ハング・オン・スルーピー

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