哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

死こそ幸福をもたらす現実(概念じゃない)

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 死に気づく修行は、

頭燃を払う真剣さで行なわなければ

のんびりだらだら怠けているのとおなじだ。

 

 

 スマナサーラ長老が、この説法で教えてくれている「死念経」については、

過去記事「死に関して迂闊でない人」で感想を書いた。

 

プッタタート編訳「ブッダの言葉の宝庫」より
死に関して迂闊でない人
を要約して引用させていただきます。
正確な原文はリンクを参照してください。

 

 ある時、ブッダが比丘達に、大きな功徳があるマラナサティ(死隋念)を「どのように実践しているか」と訊ねました。

比丘A 「今日だけ、今晩だけの命かもしれないと思い修行に励みます」

比丘B 「昼の間しかない命かも知れないと思い修行に励みます」

比丘C 「托鉢して食べ終わるまでしか命がないかもしれないと思い修行に励みます」

比丘D 「ご飯を四、五口食べ終わるまでしか命がないかもしれないと思い修行に励みます」

比丘E 「あと一呼吸しか命がないかもしれないと思い修行に励みます」


ブッダは、比丘A、B、C、Dは「まだ不注意な人」「まだ漏の滅尽を遅らせるためにマラナサティをしている」と言い、比丘Eだけを「油断のない人」「本当に漏を滅すためにマラナサティをする人」と褒めました。

(要旨引用終)

 

 

 

比丘A、B、C、Dのように注意不足でいくら長くやっても何も結果は得られない。

やるならたとえ短くても、比丘Eのように、少しも油断なくやる必要がある。


 現状、比丘Aの真似さえ難しい人が大多数なのは、苦聖諦の理解が足りないからだ。だからまず、苦聖諦を学ぶ必要があるとおもう。

 

 

[210722追記] 

 大きな功徳があるマラナサティ(死隋念)を「試しにやってみました」というちょっと予想外のコメントをもらい、そういう人向けのもう一歩踏み込んだ説明をリコメしました。その一部を、以下にコピペしておきます。

 

「試しにやってくれる人がいるとは意外でした。
ありがとうございます。


おれの省略した引用はちょっと不正確なので、念のために書きます。

ブッダは、あと一呼吸しか命が無いと死念する比丘Eだけを認め褒め、他の比丘ABCDは何の結果も生まない怠け者と強く叱責します。

しかし、このスマナサーラ長老の正確なパーリ語経典解説を聴けば分かりますが、正しくは比丘DとEの間にもう一人います。この比丘は、一口食べる時間しか命がないと死念していると答え、ブッダはこの比丘も褒めます。その前の、4,5口食べる時間と答えた比丘Dは反対に叱られてますから、この辺りが、死念修行を成就させるか徒労に帰すかのボーダーラインだと分かります(動画46分頃)……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (My Favorite Songs)

これ、テレビで見てたわ。

松田聖子 青い珊瑚礁

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