(現代語仏教聖典 釈尊編 3章1節「最初の説法」より)
(釈尊は弟子達を集めて、法を説かれた)
もしこの身体が、『我』であるならば、『我』は、わが身を、自由にすることが出来る筈である。
この心も、身と同じく、『我』ではない。心もまた、因と縁との
もし心が『我』であるならば、『我』は、わが心を、自由にすることが出来る筈である。
然るに、この心は、こころにもなく悪を思慕し、意外なことで善から遠ざかる。何ごとも思うままにならないのが常である。
弟子達よ、人あって、この身は、永遠(常住)であるか、変化(無常)であるか、と、問うならば、なに人も、無常である、と、答えるに相違ない。
それでは、それが欲しない方向に変化することは、苦であるか樂であるか、と、問うならば、なに人も、苦である、と、答えるに相違ない。
このように、
常に変化し、しかも苦であるものを『我』であるとか『
心も、また、同じく、無常であり、苦であり、無我である。
然らば、この個体を組み立てている、身と心と、そして心の対象は、いずれも、『我』でも『我所』でもない。
ただ無智なるが故に、『我』、『我所』として、
身も心も、そしてその対象となるところのものも、ことごとく縁によって発生したものであって、絶えず変化し、
智慧ある者は、この
(強調処理はわたしです。以上引用終)
自分の自由にならないものは、自分のものではない。これは明々白々な道理だ。
自分の自由になるものだけが、自分のものだといえる。
自分の身体は自分のものではない。
なぜなら、身体はかってに老い病気になり最後には死ぬ。そのどれひとつとっても自分の自由にならないからだ。
自分のものでないなら、それは当然自分じゃないのも明らかだ。
この身体は自分ではない。
以上のことが第一段階で、これが本当に解れば後は簡単だ。
自分の心は自分でも自分のものでもないし、この世界になにひとつ、自分、自分のものといえるものはない。
これは直接無我に繋がる知なので、我欲の塊の動物本能が激しく抵抗する。
たいていの人は、それでどうなる、そう解ってなんの役に立つと嫌悪感をあらわにするが、そういう人達は第一段階がまだ全然解っていない。口先で「ソレハワカッタ」と言ってるだけ。
色・受・想・行・識を
自然状態の人間は、生まれてから、さあいよいよ死ぬというその
「色・受・想・行・識を厭う」とは、平易にいえば「妄想を厭う」ということだ。
人間は『我』『
いくら釈尊にいわれても、自分で妄想だと気づかなければ、厭う気持ちなどとうてい起きるものではない。
妄想だと気づくための唯一の方法が、苦聖諦を学ぶことなのだ。
色受想行識を厭わなければ解脱はありえない。
色受想行識を厭うには、動物本能を制圧する特別例外的な強いエネルギーが必要で、それは苦聖諦を学んだ者のみに与えられる。
(My Favorite Songs)
1973.2.3 たどり着いたらいつも雨降り☆よしだたくろう+柳田ヒロバンド / 浜松市民会館
(過去記事統合増補編集再録)