哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

鳥なき郷の蝙蝠

 ブッダが発見した

 

無我という真理

 

は、生物一般の宿命的盲点になっている。 

 

賢愚を問わず誰もが「俺」ほど確実な実感は他にないと思いこんでるから、

「俺、俺のもの」は錯覚だと言われたら「…あほか」と聞き流す。

 

 

I feel

              じゃなくて

              There is feeling

              なんです

 

スマナサーラ長老におしえられても、

いや絶対I feelだし

と聴く耳を持たない。

 

 

 

 

 

 

では、たとえ話をひとつしよう。

 

 

 

水の入ったグラスに差してあるストローは

折れ曲がって見える。

光の屈折でそう見えるだけで、

本当はまっすぐだと誰でも知っている。

 

しかし、ストローはまっすぐだと知ってからも、

グラス越しのストローは

なにも変わることなく曲がって見えている。

 

 

光の屈折が理解できない原始人なら、

いくらストローはほんとは曲がってないと説明しても、

「いや曲がってる。この目で見てるから間違いない。

絶対まっすぐに見えないから」と言い張る。

 

もしまっすぐに見えたら、

それこそおかしいのだが。

 

 

気づいてしまえば

「なんだ、そんなことか」

という単純明白な事実なのに、

気づかないうちは、ほとんど理解し難い。

 

ブッダだけが、「我」は錯覚だと、

ストローをグラスから抜き出して見せるように、

明晰判明に示した。

 

 

 

 

 

 世間のいう、ありがたいものには

鳥なきさと蝙蝠こうもり
 

がなんと多いことだろう。

 

世間で何千年も崇められてきた宗教や哲学という「物語」は、

すべて

「我」を(錯覚と知らず)自明の大前提にして、

紡ぎだされた妄想にすぎない。



ブッダの諭しのまえでは、

他のかたじけない教えや知恵はすべて、

鳥なき郷の蝙蝠であったことが、あからさまになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「我」を(錯覚と知らず)

自明の大前提にしてる現代人は



「目には目を歯には歯を」



という主張を今でも100パー正しいと確信し

全力で支持する。

考えれば考えるほど、

彼はそうせざるを得なくなる。



「我」の奴隷である現代人は、

今も原始人のままだから。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おまけ)

アル・ウィルソン。
「ザ・スネイク」

 

 

 

 

 

フィフス・ディメンション
「ビートでジャンプ!」

 

 

 

 

 

 

 

BJトーマス。
「雨に濡れても」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(過去記事統合増補編集再録)