【日本文学の朗読】林芙美子『クロイツェル・ソナタ』全編通し~戦場から帰還した夫と妻の心のすれ違い、お互いバイオリンとピアノの協奏のごとくたたみかけ合う~
元ネタであるトルストイ『クロイツェル・ソナタ』には、冒頭で聖書の言葉が引用されてる。
しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
(マタイ伝第五章二十八節)
弟子たちは言った、「もし妻に対する夫の立場がそうだとすれば、結婚しない方がましです」
するとイエスは彼らに言われた、「その言葉を受けいれることができるのはすべての人ではなく、ただそれを授けられている人々だけである」
(マタイ伝第十九章十、十一節)
トルストイは、読者を
受けいれることができる、それを授けられている人々
のレベルに少しでも共感させようと努力してる。
日本の『クロイツェル・ソナタ』評は、首尾一貫して、そういう努力に対する、強い反感と曲解と無視による徹底否定だ。
まず、二葉亭四迷は小説「平凡」の中でトルストイ「クロイツェル・ソナタ」を評して
トルストイは北方の哲人だと云う。此哲人は
何の事だ?
今食う米が無くて、ひもじい腹を
(青空文庫より引用させて頂きました)
と、平凡を卑下慢する主人公に、貪瞋痴の苦に夢中な人間をまっすぐ肯定させてる。
時が移り、林芙美子になると、同じ主張が小説技術上もっと熟練した念の入ったものになってる。
「夫婦げんかしてられるうちはいいけど、しなくなったらおしまいなのよ」
「あら、楽しんで喧嘩なんかしてやしませんよ」
それがそうじゃない。口先で否定しても生き方全体で肯定してる。
生きる苦しみを夢中で楽しむ人間のサガの千差万別を活写するのは女流作家の一大資質だが、林芙美子はその極致だ。
この朗読で、激しくいがみ合う俗な女と男を「お互いバイオリンとピアノの協奏のごとくたたみかけ合う」と評するのもこの流れだとおもう。
(My Favorite Songs)